パリの文化・歴史
パリの文化・社会・歴史:パリのメトロ

パリのメトロ

パリ観光には欠かせない交通手段   
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メトロの名前の由来は?

パリ観光には欠かせないメトロ。メトロといえば地下鉄のことだと今では常識になっていますが、メトロが初めて開設された当時の正式名称はシュマン・ドゥ・フェー・メトロポリタン(chemain de fer metropolitain de Paris)といった長いもの。「首都の鉄道」という意味です。それが省略されて単純にメトロ(Metro de Paris)と呼ばれるようになりました。

メトロの歴史:セーヌの美観の危機だったメトロ建設

1900年のパリ万博の年にパリのメトロは完成しました。最初はヴァンセンヌ(パリ東部)とポルト・マイヨー(パリ西部)にかけての東西線で、次第に路線を増やしていきました。当初のメトロには「地下鉄」の意味合いは全くなく、単に「首都を走る鉄道」という意味合いでした。つまりパリのメトロは最初は地上を走る予定でした。中でも有力だったのはセーヌ河の上に高架鉄道を建設するというもので、もしそれが実現していたらセーヌの穏やかな眺めは永久に失われていたかもしれません(大通りやアパルトマンの上に鉄道を通す突飛な計画もありました)。こうしてメトロの建設が始まりましたが、実現はなかなかせず、その間に地下鉄開設はロンドン(1863年)やブダペストに遅れをとります。しかしその遅れが幸いしてパリの美観を損なわずにすみました。何故なら建設当時の1900年には地下に鉄道を作る技術が発達して、パリでも地下に鉄道が作れるようになったからです。こうして今のパリ・メトロの基礎ができあがりました。最初のメトロの建設責任者はフュルジャンス・ビヤンブニュ。彼の名前はモンパルナスの地下鉄駅モンパルナス・ビヤンブニュに残っています。
パリの文化・社会・歴史:パリのメトロ
パリのメトロの入り口

メトロの入り口

パリに行くと必ず目にするメトロの奇怪な入口。緑の蔦が絡まったような、柔らかな液体が伸びたような本当に不思議な外観はパリのイメージシンボルにもなっています。これはアール・ヌーヴォー(Art Nouveau)の代表的建築家エクトール・ギマール(Hector Guimard)の作品。当初のメトロよりギマールのデザインが採用され、ギマールの作品はメトロの象徴となりました。しかし流動的で植物のような彼のデザインはフランス人の間であまり評判はよくなく、一度はメトロの入り口のほとんどが取り壊されてしまいました。現在ではアール・ヌーヴォーが逆に評価され、かつてのギマールのメトロの入り口が復元され、パリの地下鉄を飾っています。
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パリのメトロの入り口

新しくなるメトロ、ユニークなメトロ

21世紀に入ってメトロの改修が行われています。20世紀前半に造られた駅が多く、どのメトロの構内も老朽化が進んでいるためです。ほとんどの駅の壁や天井は真っ白いタイルで覆われ、明るい雰囲気に変わりました。その中でもいくつかの駅では、そのエリアの特色を生かした独自のデザインに改修されたメトロもあります。パリ3区の工芸技術博物館の近くにあるアール・ゼ・メティエ駅のホームはレトロな潜水艦の中のような内装で統一されています(写真)。ルーヴル美術館近くのルーヴル・リヴォリ駅のホームには、まるで美術館の中のように壁画や彫刻が飾られています。

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