パリの文化・歴史
パリの歴史:パリのカフェの歴史

パリのカフェの歴史

政治や芸術の舞台になったパリ文化の中心   
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パリのカフェの歴史

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パリのカフェの歴史

パリという言葉を聞いてカフェを連想する人は多いのではないでしょうか。たしかにパリには多くのカフェがあり、フランス人の生活と切り離せないものです。朝はクロワッサンと一緒にコーヒーを飲み、昼はランチをゆっくり取り、夜にはワインを飲みながら友人と過ごすフランス人にとって、カフェは人生の一部。しかしかつてエッフェル塔がパリに存在しなかったように、カフェも最初からあったわけではありません。パリのカフェはいつ誕生し、どのように変化していったのでしょう。

イタリアを手本にしたパリのカフェ

パリの街並みがそうだったように、カフェも最初はローマやヴェネチアなどのイタリアの諸都市が起源とされています。イタリアのカフェの歴史は古く、ヴェネチアにはヨーロッパ最古のカフェと言われるカフェ・フローリアンがあり、ローマにはアンティコ・カフェ・グレコという老舗のカフェがあります。そのため、パリは最初にイタリアを見本としました。その後パリの都市文化の発展に応じて、パリ独特のカフェというものが生まれていきました。そしてカフェはフランスの政治や芸術の重要な舞台となり、パリになくてはならない要素になっていくのです。

コーヒーの起源

コーヒーの原産地はブラジルではなくアフリカのエチオピアと言われています。9世紀頃、エチオピア南西部のカファ地方(Kaffa)で山羊の群れが赤い実を食べて夜中まで飛び回ったことがコーヒーの発見となりました。不思議に思ったカルディという羊飼いが森の中にある赤い実を食べたところ、覚醒作用があることが分かったそうです。それがコーヒーの実でした。 その後コーヒーは14世紀にアラビアに伝えられ、アラビアの国々がコーヒーの栽培と貿易を独占します。その後コーヒーはオスマン帝国(現在のトルコを含んだアラビア一帯)で専売され、1554年にはイスタンブールで世界最初のカフェ(コーヒーを出す店)が開かれました。カフェの出現は仕事に疲れたアラビアの人々にとって休息の場になりました。その役割は今とあまり変わらないようです。 その後コーヒーはドイツの医者であり植物学者であったレオンハルト・ラウヴォルフによってヨーロッパに紹介されました。彼は1582年に出版された自著でqahwaという飲み物を記述しています。1645年には貿易が盛んだったイタリアのヴェニスでヨーロッパ最初のカフェが生まれました。その後カフェの人気は他のヨーロッパの国にも広まり、1652年にはロンドンでオープン。約30年後の1686年にはパリで初めてのカフェが誕生しました。アフリカ、アラビアを通じて、ヨーロッパにもたらされたカフェ。フランスと言えばカフェですが、元々のルーツはアフリカにありました。

フランスにもたらされた初めてのコーヒー(1644)

フランスで最初にコーヒーが伝わったのはパリではなく南仏マルセイユでした。1644年にフランス大使の随行者であったド・ラ・ロークがオスマントルコのコンスタンティノープルに赴いた帰りに少量のコーヒーをマルセイユに持ち帰ったのが始まりです。そのときにトルコで実際に使われていた陶磁器のコーヒーカップも持ち帰ったと言われています。東西貿易の盛んだったマルセイユで1671年にフランス初のカフェがオープンしています。

パリで初めて売られたコーヒー(1672)

それではコーヒーがパリに伝わったのはいつごろなのでしょうか。最初はルイ14世の宮廷にやってきたオスマントルコの全権大使が持参したコーヒーによって貴族の間で流行となり、パリ市民の間にも広まったと言われています。またコーヒーの元となるコーヒーの木は最初オランダから寄贈され、その苗木がパリ植物園で栽培されパリのカフェにコーヒーとして供給されたのが始まりとされています。

その後1672年にパスカルというアルメニアの商人がパリで初めて市民にコーヒーを売りました。一種のエキゾチックな飲み物として宣伝したようで、サン・ジェルマンの市で露店を出し、トルコ人の少年たちに給仕をさせました。パリで初めて売られたコーヒーは小さな黒い飲み物(プチ・ノワール)と呼ばれて人気だったそうです。その後パスカルはポン・ヌフの近く(レコール河岸)にお店を出しますが、異国情緒を出した東洋風のコーヒーハウスは上流階級の好みに合わず、しばらくして閉店となります。パリでの商売をあきらめたパスカルはコーヒー全盛期のロンドンへ移ります。

パリ初のカフェの誕生(1686〜)

それから数年後、パリに初めての本格的なカフェ(コーヒーを売る店舗)ができたのは1686年のことでした。パスカルの店で働いていたシチリア人フランチェスコ・プロコピオが1686年に開いたカフェ・プロコープです。場所はランシエンヌ・コメディー通り(一番最初はトゥルノン通り)。浴場施設を買い取って改装した店で、店内には美しい大理石や鏡が配置されています。その優雅な美しさは他のカフェの見本となりました。パリ発のカフェの創業者であったプロコピオはフランスで初めてジェラート(アイスクリーム)を売った人物でもあり、1672年にはアイスクリームの店を構えています。プロコープではコーヒーやアイスクリームの他に、レモネードも販売されました。

パリ初のカフェの変遷

パリ発のカフェであるプロコープは当初、一般市民の憩いの場というよりは貴族や芸術家たちの社交場でした。ワインではなく当時ヨーロッパで広まりつつあったコーヒーが出される目新しさもあり、カフェの登場はパリの人々に注目されました。向かいには移転してきたコメンディー・フランセーズがあり、立地条件も完璧でした。そのため、最初は演劇関係者の集まる演劇カフェとして使われました。その後18世紀後半にはラ・フォンテーヌらの詩人・作家が集まる文学サロンになり、啓蒙思想家であるヴォルテールやルソー、ディドロ、ベンジャミン・フランクリンが集まる政治サロンへと変わっていきます。ちなみにベンジャミン・フランクリンはこのカフェでアメリカ合衆国憲法の一章を書きました。18世紀の自由な思想はこのカフェから生まれたと言っても過言ではありません。

続く18世紀末には革命家が集まって過激な議論を交わし、フランス革命の発端にもなりました。その中にはロベスピエールやジョルジュ・ダントン、ジャン=ポール・マラーなどの政治家がいました。マラーが出版した『人民の友』という革命新聞の印刷所はこのカフェの裏にありました。その後プロコープは再び文学サロンに戻り、19世紀を代表する作家バルザック、ネルヴァル、ジョルジュ・サンド、ミュッセ、ゴーチエ、エミール・ゾラ、モーパッサン、ヴェルレーヌ、オスカー・ワイルドなどが客とやってきました。

今ではカフェというとコーヒーを飲みおしゃべりをしたり読書をしたりする場所ですが、当初は「文学サロン」としての役割がありました。オープンからすでに320年以上。パリカフェの歴史と共に歩んできたプロコープは、今も多くの文化人に愛され続けている老舗中の老舗カフェです。現在も同じ場所で営業していますので、ご興味のある方は是非訪れてみてください。

コーヒーは何故流行った?
プロコープができたあと、パリ市内に次々とカフェがオープンします。当時は医者によってコーヒーが嘔吐を抑えて心臓を強くするものとして飲むことを勧められていたため、健康のために多くのパリ市民がコーヒーを愛飲しました。また精神を高めたり議論を熱くするためにもコーヒーは不可欠なものとされていました。当時の人々にとって、コーヒーは健康と精神を高めるための特効薬のようなものだったのかもしれません。19世紀の作家バルザックはコーヒーが徹夜の仕事と頭脳労働に効果を発揮すると考え、1日80杯のコーヒーを飲んでいたそうです。こんな飲み過ぎは禁物ですが、現代でもカフェは気持ちを切り替えて集中できる特別な場所。小説を読んだり手紙を描くのにカフェを使う人も多いです。

テラス席は何故できた?
当時フランスのカフェは室内が禁煙でした。煙だらけのイギリスのコーヒーハウスと比べると正反対の方針であるところが面白いですね。ただタバコを吸う人は今も昔も多かったパリ。喫煙者のためのスペースとして外側の席が設けられました。この喫煙者用の席が徐々に発達して現在のテラス席になりました。現在ではテラス席のほうが人気で、天気のいい日には多くのパリジャンで埋まっているのもパリおなじみの風景といえます。またフランス人は日焼けをすることが好きなので、日光の当たるテラス席は屋内席と比べて人気です。バカンスシーズン、時間的・金銭的理由でパリを離れられなかったパリジャンは、せめて公園やカフェのテラスで日光を浴びて「バカンス風」の日焼けをします。初夏のパリ、カフェのテラスでゆっくり休むことほどパリらしい体験はないかもしれません。

18世紀前半のカフェ:多様な業態が生まれたパリのカフェ文化

ルイ15世の時代、カフェはさらに発展し、パリ市民の生活の中に浸透していきました。当時のパリには約600軒のカフェがありましたが、その中にはカフェ以外にもサロン・ド・テやブラッスリーが含まれていたとされています。カフェはイタリアから入ってきた文化ですが、サロン・ド・テ(ティールーム)は紅茶文化が浸透した英国から、ブラッスリー(ビヤホール)はビールを愛飲するドイツから入ってきたお店です。サロン・ド・テでは紅茶が提供され、ブラッスリーではビールと料理が提供されましたが、店の名や営業形態は違っても、提供される内容はそこまで違わなかったそうです。カフェでビールを飲むことができたし、ブラッスリーでもカフェを楽しむことができ、人々はそのときの気分や好みに応じて社交場を変えて楽しみました。

18世紀後半のカフェ:パレ・ロワイヤル周辺

フランス革命期にはパレ・ロワイヤル(かつての王宮)周辺にカフェが集まっていました。当時ここはパリ随一の盛り場でした。ルイ14世のときに王宮として使われたパレ・ロワイヤルは、王がヴェルサイユに移ってからは寂れ続けていましたが、ルイ16世の時代の1784年にショッピングのできる歓楽街に生まれ変わりました。回廊にはレストランや商店ができ、警察の立ち入りが禁じられていたので革命家や娼婦のたまり場にもなりました。カフェがその近くにできたのも自然の成り行きでした。また当時のパリには全ての市民に新聞が行きわたらなかったため(また字の読める人も少なかったため)、新しい情報を求めて多くの人がカフェに集まりました。

フランス革命のきっかけになったカフェ(18世紀)

この革命の時期にカフェが流行ったのは、大きな意味があったといえます。フランス革命が起こる流れの中でカフェが重要な役割を果たしていたからです。カフェに集まった人の中には、思想家、ジャーナリスト、作家、芸術家などがいて、多くの人がルイ16世の政治に不満を持っていました。ロベスピエールやジョルジュ・ダントン、ジャン=ポール・マラーなどの王制打倒を目指すジャコバン派たちはパレ・ロワイヤルのカフェに集まって秘密裏の話し合いをしたそうです。中でもカフェ・ド・フォアは、カミーユ・デムーランが演説をしたカフェとして有名で、フランス革命につながるバスチーユ監獄の襲撃のきっかけとなりました。

19世紀のカフェ:グラン・ブールヴァール

革命後のパリの繁華街はパレ・ロワイヤルからグラン・ブールヴァール(パリの大通りの総称)に移っていきました。19世紀末、これらの大通りには多くのカフェやレストラン、百貨店ができました。イタリアン大通りにはカフェ・ド・パリやカフェ・ド・バード、カフェ・リッシュなどの有名なカフェがありました。カフェ・リッシュにはゴンクール兄弟や詩人ボードレールが通いました。印象派の画家ピサロやモネ、ルノワールもカフェの客でした。カフェ・ド・バードの常連だった画家のマネは拠点をバティニョール大通りにあるクリシー広場のカフェ・ゲルボワに移し、木曜の集いを開きました。このカフェにはマネを中心に、作家のゾラ、デュランティ、画家のドガ、モネ、シスレー、ピサロ、セザンヌ、写真家のナダールなどの芸術家たちが集まりましたが、1870年代には評判を失っていきます。彼らは再び場所を変え、カフェ・ド・ラ・ヌーヴェル・アテネが新しい拠点となりました。その後ブールヴァールは衰退し、繁華街に軒を連ねていたカフェのほとんどは現在はもうありません。その中で今でも当時の栄華を残しているのはオペラ座前にあるカフェ・ド・ラ・ペ(1862〜)。今でもパリ有数の老舗カフェとして営業中です。

ダンディたちが通ったカフェ
19世紀のパリはダンディスムの時代でした。イギリス仕込みのコートを着込んだパリのダンディたちは、イタリアン大通りのカフェに集いました。彼らにとってのパリとはイタリアン大通りを意味していました。当時の大通りにはボードレールやマネ、ドガなどのダンディスムに傾倒した作家や画家たちの姿が見られました。

19世紀末〜20世紀初頭のカフェ:モンマルトル

20世紀になると、パリの中心はすでにグラン・ブールヴァールにはありませんでした。ブルジョワ階級はシャンゼリゼ大通りに、芸術家や作家たちはモンマルトルの丘に移動し、それに合わせてカフェも分散していきます。シャンゼリゼでは優雅にカフェを楽しみ、モンマルトルの丘では芸術家たちが芸術論議に花を咲かせます。特にカフェ・ル・ゲルボワやカフェ・ラ・ヌーヴェル・アテネでは印象派の画家たちが盛んに議論を交わしました。モンマルトルで今も残る芸術家カフェと言えばラパン・アジルでしょう。ベルエポック時代に芸術家が集まったシャンソン・キャバレーです。ここではかつてまだ無名だったピカソやユトリロ、モディリアーニたちの画家が通いました。ピカソたちの集合アトリエ洗濯船もこの近くでした。

またモンマルトル周辺には様々な見世物を行うカフェ・コンセール(コンサートカフェ)も人気で、自由な雰囲気を求めて多くの庶民が集まりました。タンプル大通りにあったアポロン、エル・ドラド、アルハンブラ、ジャルダン・ド・パリなどが有名です。日本の長椅子を意味するディバン・ジャポネはロートレックがポスターに描いたことで有名になりました。その中でもシャンソンを歌うことのみに特化したカフェ・コンセールはキャバレと呼ばれ、多くのシャンソニエを生み出しました。モンマルトルには多くのキャバレができましたが、特に有名だったのはシャノワール(黒猫)でした。

1910年頃〜1920年代のカフェ:モンパルナス

1910年代になると芸術家たちはモンマルトルの丘から下りてモンパルナスに向かいます。今度はモンパルナスがパリのカフェの中心地となります。20世紀初頭、まさに世界の芸術はモンパルナスに集まっていました。日本の画家藤田嗣治も、フランスに渡ってモンパルナスのカフェに通っています。ちなみに1911年(明治44年)には日本で初めてのカフェが銀座にできています。作ったのは東京美術学校出身の松山省三。パリに留学した画家であり美術学校の恩師であった黒田清輝から聞いたパリのカフェの様子をモチーフに、芸術家や作家が集まって話をできるようなカフェとして開業しました。名前はカフェ・プランタン(命名は劇作家の小山内薫)。森鴎外や谷崎潤一郎、北原白秋などの著名な作家たちが維持会員になっていました(会員制は途中で消滅)。永井荷風の『断腸亭日乗』にもこのカフェの様子が描かれています。芸術の街パリの香りを運んだカフェ・プランタンは昭和20年に取り壊されるまで多くの文人に愛されました。

モンパルナスの喧騒は第1次世界大戦が終わった1920年代まで続きます。その頃にはアメリカの作家ヘミングウェイやフィッツジェラルドもモンパルナスを生活の拠点とし、カフェを書斎としながら小説を描きました。20年代にパリにいたアメリカ人作家たちはロストジェネレーション(失われた世代)と言われ、今までにない人間の虚無を描いた作品を生み出しました。ロストジェレーションの代表作とも言えるヘミングウェイの処女長編『日はまた昇る』はカフェがなければ生まれないものでした。モンパルナスの有名なカフェにはクロズリー・デ・リラ、ドーム、ロトンド、セレクト、クーポールなどがあります。モンパルナスからは離れますが、セーヌを隔てたパリ右岸のシャンゼリゼ通りにあるフーケツもヘミングウェイ行きつけのカフェでした。このように20年代のモンパルナスは芸術家たちの中心となり、そこには画家、詩人、作家、シュールレアリストたちが通い、カフェに行けば芸術家に会えるという今では考えられない夢のような時代でした。

1940年代〜1960年代のカフェ:サン・ジェルマン・デ・プレ

しかし1929年の世界大恐慌とともに、モンパルナスのカフェ時代も終わりを告げます。戦後になるとカフェの流行はモンパルナスからサン・ジェルマン・デ・プレに移ります。ここではサルトルとボーヴォワール夫妻による実存主義の考え方が花開き、カフェで議論や執筆が行われました。サンジェルマンの有名なカフェにはドゥ・マゴ、カフェ・ド・フロールなどがあります。ブラッスリー・リップはヘミングウェイお気に入りのブラッスリーです。この界隈にはカフェだけでなく出版社や書店も集まり、パリの知的中心地として人気になりました。

現在のカフェ

60年代以降、パリのカフェ文化は衰退していきます。映画ではヌーヴェル・バーグ、小説ではヌーヴォー・ロマンの運動がありましたが、すでにカフェに集まることはなくなっていたようです。それは作家個人がそれぞれに作品を作る現代という時代のせいかもしれません。カフェという空間、運動や議論の場が必要とされなくなったのかもしれません。今では世界中の観光客が当時のパリのカフェ文化の栄華を求めてやってくるだけです。しかしカフェは今でも市民の憩いの場としてパリになくてはならない文化の一つとなっています。多くの人の生活の一部となり、またそれらの生活を垣間見ることのできる劇場のようなパリのカフェ。最近ではアメリのカフェのように地元にある普通のカフェが映画の舞台になったことによって人気になるケースもあります。300年以上続くパリのカフェ文化はこれからも形を変えて発展していくのでしょう。

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