パリの文化・歴史
パリの歴史

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パリシイ族が住みついた辺境の地   

パリの歴史

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紀元前、パリはまだ川の流れる辺境の地でした。川というのは現在のセーヌ。辺りは沼地で、灌木が生えているだけの何もない場所でした。その川の中の島にパリシイ族が住み着きました(パリ近郊のナンテールがパリシイ族が最初に住みついた場所とも言われています)。それが現在のシテ島です。セーヌ川の浅瀬にあったシテ島は石灰岩の地質で、人が住む場所としては最適でした。当時はセーヌ川の北部にもう一本川が弧を描くように流れていて、セーヌとその川の間が沼地になっていました。この辺りが現在のマレ地区(Marais=沼地)です。セーヌ北部である右岸が沼地だったため、パリの町はシテ島を中心として南部の左岸に広がっていきました。

最初にこの地に住み始めたパリシイ族はセーヌ河で漁業をして生活するケルト系民族でした。紀元前3世紀ころのことで、パリという街の名前は彼らにちなんでいます(当時はまだパリとは呼ばれていませんでした)。その後、カエサル率いるローマ軍のガリア遠征により、この島は征服されローマ都市として発展していきます(当時フランス周辺はガリアと呼ばれていました)。ローマ人が住むようになってからは、「川の中の住処」を意味するラテン語で「ルテティア」(リュテスとも)と呼ばれ、この名前は4世紀頃まで使われました。ローマ人によって征服されはしましたが、先住民族であったパリシイ人たちも共同生活し、お互いに意見を出し合って都市建設が進んだと言われています。共同浴場はその一例です。

それから500年の月日が流れ、506年、フランク族の王クロヴィスがこの島を首都(シテ)と宣言したことから「シテ島」(首都の島)と呼ばれるようになります。1345年には島内にノートルダム大聖堂が200年の歳月を経て完成し、街は大きな発展を見せていきます。14世紀には国王の宮殿が造られ、パリはシテ島を中心に発展しました。当時の豪華な宮殿の一部(円天井)はコンシェルジュリーの中で見ることができます。

また中世まではシテ島の西端に3つの小島がありました。その一つがトレーユ島と呼ばれていて、のちにシテ島とつながり、現在はヴェール・ガラン公園になっています。まだこの頃はパリのセーヌ川には島が多く、シテ島の隣にあるサン・ルイ島の近くにもルーヴィエ島と呼ばれる小島がありました。こちらは19世紀半ばに埋め立てられパリ右岸の一部になってしまいました。

シテ島を中心に発展していったパリの街ですが、中世以降は無秩序な建築と悪臭と人口密度でひどい状態になり、犯罪者の巣窟にもなりました。19世紀にその密度は頂点を迎え、大聖堂の周りにはそんな民家が密集してスラム街のような状態になっていたのです。1853年にオスマン改造によりシテ島の一大改造が決定され、大聖堂、サント=シャペル、コンシェルジュリーを除くすべての建物が変えられました。そして今のような形のシテ島が誕生しました。パリは意外にも150年前に新しく模様替えされた街なんですね。それでも街は150年は変化していないことになりますから、少しでも古くなったら建て替えばかりしている日本から見ればすごいことです。

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