パリの歴史
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パリの歴史
紀元前、パリはまだ川の流れる辺境の地でした。まだその川にセーヌという名前もついていなかった頃のことです。辺りは沼地で、灌木が生えているだけの何もない場所でした。紀元前3世紀頃、その川の中の島にパリシイ族が住み着きました(パリ近郊のナンテールがパリシイ族が最初に住みついた場所とも言われています)。それが現在のシテ島です。彼らはセーヌ河で漁業をして生活するケルト系民族でした。パリという街の名前は彼らにちなんでいます(当時はまだパリとは呼ばれていませんでした)。セーヌ川の浅瀬にあったシテ島は石灰岩の地質で、人が住む場所としては最適でした。当時はセーヌ川の北部にもう一本川が弧を描くように流れていて、セーヌとその川の間が沼地になっていました。この辺りが現在のマレ地区(Marais=沼地)です。セーヌ北部である右岸が住みにくい沼地だったため、パリの町はシテ島を中心として南部の左岸(今のカルチェラタン地区)に広がっていきました。紀元前1世紀頃、ローマ帝国の軍人カエサル(ジュリアス・シーザー)によってパリは占領されます。紀元前51年頃にカエサルはこの征服の記録を『ガリア戦記』として残しました(当時のローマ人はフランスをガリアと呼ばれていました)。カエサルの遠征により、パリはローマ都市として発展していきます。ローマ人が住むようになってからは、「川の中の住処」を意味するラテン語で「ルテティア」(リュテスとも)と呼ばれ、この名前は4世紀頃まで使われました。ローマ人によって征服されはしましたが、先住民族であったパリシイ人たちも共同生活し、お互いに意見を出し合って都市建設が進んだと言われています。闘技場や共同浴場はその一例です。
パリに生まれた最初の文化
パリに最初に住んだパリシィ族(ケルト民族)は力が強く勇猛な民族でしたが、高度な文化や文字を持っていませんでした。そのため、ローマに支配されたときに彼らの影響下に置かれました。ケルトとローマの融合からから生まれたのがガロ・ロマン文化でした。
5世紀中頃、ローマの都市として発展していたパリにゲルマン民族が侵入します。いわゆるゲルマン民族の大移動の時期で、その影響をパリは大きく受けました。486年、ゲルマン民族の一部であったフランク族の王クロヴィスがパリを占領します。そして町の中心にあるセーヌの島を首都(フランス語でシテ)と宣言したことから「シテ島」(首都の島)と呼ばれるようになりました。
フランスという国名の由来は?
フランスという国の名前は「フランク族の土地」という意味です。5世紀にフランク族がパリを占領したことに由来しています。
1345年には島内にノートルダム大聖堂が200年の歳月を経て完成し、街は大きな発展を見せていきます。14世紀には国王の宮殿が造られ、パリはシテ島を中心に発展しました。当時の豪華な宮殿の一部(円天井)はコンシェルジュリーの中で見ることができます。
また中世まではシテ島の西端に3つの小島がありました。その一つがトレーユ島と呼ばれていて、のちにシテ島とつながり、現在はヴェール・ガラン公園になっています。まだこの頃はパリのセーヌ川には島が多く、シテ島の隣にあるサン・ルイ島の近くにもルーヴィエ島と呼ばれる小島がありました。こちらは19世紀半ばに埋め立てられパリ右岸の一部になってしまいました。
シテ島を中心に発展していったパリの街ですが、中世以降は無秩序な建築と悪臭と人口密度でひどい状態になり、犯罪者の巣窟にもなりました。19世紀にその密度は頂点を迎え、大聖堂の周りにはそんな民家が密集してスラム街のような状態になっていたのです。1853年にオスマン改造によりシテ島の一大改造が決定され、大聖堂、サント=シャペル、コンシェルジュリーを除くすべての建物が変えられました。そして今のような形のシテ島が誕生しました。パリは意外にも150年前に新しく模様替えされた街。それでも街は150年は変化していないことになりますから、少しでも古くなったら建て替えばかりしている日本から見ればすごいことです。
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パリラマはパリを紹介する観光情報サイトです。パリの人気観光地からあまり知られていない穴場まで、パリのあらゆる場所の魅力を提供することを目的としています。情報は変更される場合があります。最新情報はそれぞれの公式サイト等でご確認ください。
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