パリの文化・歴史
パリの歴史:パリの匂いの歴史

パリの匂いの歴史

「悪臭の街」から「花の都」へ   

パリの匂いの歴史

街中がトイレと化した悪臭の都

「花の都」パリ。しかし100年ほど前までは「鼻の曲がる都」パリでした。それはまさに「匂いの街」ではなく「臭いの街」だったのです。右の写真はかつての下水用溝が残るパリの通り。通りの真ん中にある溝に家庭から出たあらゆる汚物が流さていて、パリ全体が悪臭を放っていました。この溝は悪臭の都だったパリの名残ともいえます。

19世紀の後半になるまで、パリの住宅には十分な設備のトイレがありませんでした。あってもくみ取り式で清掃は全くされず、その臭いはアパルトマン全体に沁みわたっていました。たまに汲み取り業者がやってきて、トイレの汚物を専用の壺に入れて馬車に積み込み郊外の廃棄場へと持っていきましたが、移動中に壺から中身がこぼれ、パリの石畳を汚しました。住居にトイレがない場合は「何もかも路上へ!」方式が採用されました。つまり汚物を直接窓から外へ放り投げたのです。パリの通りはおぞましいトイレの底と化し、窓からの贈り物にぶつかる不運な被害者が後を絶ちませんでした。フーリエ思想を広めた19世紀の技術者ヴィクトール・コンシデランはこの時代のパリについて次のように言っています。

「これらの家々の窓、入口、隙間はことごとく息を吐き出す口だと言っていい。そしてそれらすべてに加えて風の吹かない時はさらにこの広大な汚水溜めから発散するあらゆる種類の臭気の混じり合ったどんよりと重く、灰色で青味がかった大気の漂うのが見られる。そしてこの汚れた大気はまさにこの大都会がその額に戴く王冠なのである。パリはこの大気の中で呼吸し、その下で窒息している。パリ、それは巨大な腐敗製造所であり、貧困、ペスト、ありとあらゆる病が力を合わせて仕事をする所であり、空気も太陽もほとんど届かない所である。」

このようにパリは19世紀まで上・下水道と水洗トイレが整備されていませんでした。水が不自由な時代が他の国と比べて長く、そのため18世紀中頃までは入浴の習慣さえもなかったのです(一生身体を洗わない人もたくさんいましたし、太陽王ルイ14世は生涯で2度しかお風呂に入らなかったと言われています)。18世紀にパリの街と人の臭さは頂点に達したといわれています。19世紀後半のセーヌ県知事オスマンのときにようやく下水管が設置されましたが、人糞は農業用肥料に使えるという考えから水洗トイレまでは完備されませんでした。また水洗トイレが普及しなかったのには、中世から続くパリの水不足が原因でした。豊富な水源のないパリでは長い間セーヌ川の水をくみとって使い、非常に不衛生な時代が続いていました。

公衆トイレができても街の臭いは消えず

また公衆トイレがないことも、パリの街が臭う原因でした。パリに公衆トイレができたのは19世紀の半ばでした。当時のセーヌ県知事ランビュトーによって下水対策が積極的に行われ、その結果1841年にフランス初の公衆トイレがパリに現れました。しかし公衆トイレは一部の人間から大きな反対にあい、その後撤去の対象になったりしました。街中に排せつ物を流す装置があること自体を嫌うフランス人がいたためで、19世紀は過度な慎みの時代(生理的欲求の抑制の時代)でもあったとも言えます。しかしそれと同時に、路上をトイレ代わりにする慎みのないパリジャンは後を絶たず、そのような原始的な状態がパリを不衛生な悪臭の都市にしていたのも事実です。

かつて体臭が魅力とされていた

また水がないと必然的に身体を洗う人も少なく、同時に入浴は身体によくないという文化がフランスに強く根付いていたため、フランス人は常にひどい体臭の中で生活をしていました。おそらく今日のように臭いという意識はなく、それが通常の状態だったのでしょう。それだけではなく、むせかえるような体臭は生命力の証とされ、健康的で魅力的な要素となっていました(もともと香水は、体臭を隠すためではなく、体臭をさらに引き立たせるために発明されました)。汚物による悪臭と身体から放たれる体臭。この恐るべき2つの臭いがパリの街に漂い、それはパリの外にいても臭ってくるほどだったと言われています。19世紀には医者や衛生学者が何度もパリの衛生状態を調査してトイレの設備や健康状態の改善を求めていましたが、その実行には長い時間がかかりました。

コレラの流行により衛生観念が生まれる

そしてついに1880年の夏、パリ中が恐ろしいまでの臭気に包まれました。そのとき、土木技師のデュラン・クレーは水洗トイレと下水道をつなげない限り、街の臭気は消えないと主張しました。しかし彼の正当な意見がパリ市に取り入れられるまでは時間がかかり、ようやく1894年になって水洗トイレの配管工事が法律によって義務付けられました。それから100年、パリはようやく「花の都」と言えるようになったといえるのかもしれません。

中世の道の中央にある溝は、まだトイレが水洗ではなかった時代の下水溝。中世から19世紀にかけて、人々は排泄物を外に投げ捨てていました。夜に2階から道路に投げ捨てられた汚物はこの溝に溜まり、雨が降ると流されていった。しかし排泄物だけでなく生ゴミなども捨てられたため、この下水溝はすぐに詰まり、雨になるとあふれ出しました。まさに悪夢のような光景が19世紀までのパリでは繰り広げられていたのです。雨の夜にこんな道を歩いたらと思うと臭さより寒気がしてくるのではないでしょうか。パリの一部に残るこの溝を見るたびに、かつての臭気都市パリの匂いまでが漂ってくる気がするのです。

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