パリのトイレ
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パリのトイレの歴史
「花の都」と言われるパリ。美しい建築物と自然の多い公園、そしてフローラル系の香水が漂うパリの街は、たしかにその名にふさわしいかもしれません。しかしそんなパリにも旅行者なら誰もが体験したことのある悩みがあります。それはトイレが少ないこと。そしてメトロの駅のホームでは、時にアンモニアの強い臭いが鼻を刺激します。最近は徐々に快適な公衆トイレが増えてきてはいますが、それでもトイレの少なさはいまだ(外国人観光客の間で)問題になっています。パリジャンでさえ外出時のトイレに困ることがあり、しかたなくカフェで借りたりすることもあるようです。しかしこの問題は今に始まったことではなく、数百年も前からパリで議論され続けてきた(あるいは放置され続けてきた)重要かつ慎重を要する問題でした。かつてパリには公衆トイレはおろか、家庭にもトイレはなく、街路は悪臭に満ちていました。花の都パリは、「鼻の曲がる都」だったのです。どのようにしてパリにトイレが普及していったのか、その歴史を見ていきましょう。※TOP写真:A pissoir on Avenue du Maine, Paris ca. 1865. Photographed by Charles Marville.
悪臭と汚泥に満ちた中世のパリ
古代のパリには水洗トイレがあったと言われています。それは清潔好きな古代ローマ人による都市が築かれていたためです。しかし西ローマ帝国による支配が終わると、パリの高度なトイレ文化は姿を消し、不衛生な時代が続くことになりました。12世紀のパリを想像することは難しい。パリはまだセーヌに浮かぶシテ島の中だけで、石畳は発明されておらず、家がひしめきあって通りに日はほとんど差さない。多くの人がイメージする現代のパリとは似ても似つかない街だったからです。当時の人々はパリの衛生問題を自分たちの問題として考えることなどほとんどなく、そのため道路は泥や汚物でぬかるみ、ひどい悪臭を放っていました。おそらく現代人からすれば数秒と同じ場所に立っていられないほどの匂いだったと推測されます。各家庭にトイレはなく、たまった汚物はそのまま窓からパリの街路へ投げ捨てられていました。中世パリの町並み、それはかつてパリが高度な水道技術を持った古代ローマ都市の一つであったとは信じられない風景だったことでしょう。汚いものはすべて外へ。それが当時のパリジャンの考えであり、パリが「悪臭の都」となる原因でした。裕福な家庭ではおまるのような便器をベッドの下に置いて使用していたそうですが、結局その始末も外へ投げ出されるだけでした。そして当時はパリの道端で排泄する人も多かったようです。そのような衛生状態を国が黙って見ていたわけではありません。何度も都市衛生に関する王令が出されましたが、それを守る人はいませんでした。そして、その汚泥は道を汚しセーヌ河を汚し、1348年に大量の死者を出すペスト(黒死病)が猛威を振るう原因となりました。シャルル6世は1404年の王令の中でセーヌ川の状況について次のように言っています。
「セーヌ川は、泥、動物の糞、廃棄物、汚物、腐敗物、ごみなどでいっぱいであり、見るだけで恐ろしく、かつ、吐き気を催す状態で、人々はこの川の水を飲んだり、体に浴びたりして、どうやったら不具合や死や、不治の病などの害を蒙らないのか、もし主の奇跡でないとしたら、まったく驚くべきことである」。
パリ最初のトイレ
14世紀にはパリで最初のトイレが生まれたと言われています。富裕層の住居にあったトイレは「宮廷風の部屋」と呼ばれたそうです。また12世紀から14世紀に作られた領主の館や修道院には、ウーブリエットと呼ばれる厠杭(トイレ用の穴)があり、人々はそこで用を足したそうです。当時は汚物を回収する専門の業者がすでにいて、彼らが各家庭で出された汚物を専用のゴミ捨て場まで運んでいました。では中世のパリのゴミ捨て場はどこにあったのでしょう。 パリ2区にノートルダム・ドゥ・ボンヌ=ヌーヴェル教会があります。小さな丘になっているこの場所は、当時パリ市外のゴミ捨て場だったそうです。教会建設のためにボンヌ=ヌーヴェルの丘の発掘が行われた際に、多くの家財道具や廃材、ごみが発見され、その中には人間の糞便も混じっていたそうです。パリのトイレの存在は1350年に発布された王令でも確認されており、おそらくパリのトイレから汲み取られた糞便はフィフィ親方(糞便汲み取り業者)によってボンヌ=ヌーヴェルの丘に運ばれていったのかもしれません。トイレがほとんどなかった15世紀のパリ
しかし、中世のパリ市民の中でトイレを使えた人は稀でした。15世紀になっても、個人の住宅にはトイレはほとんどありませんでしたし、猛威を振るったペストの恐ろしさも忘れて人々は相変わらず汚物を街路に投げ捨てていました。衛生という言葉自体がない時代で、パリの人々はおそらく不快さ・不便さを感じながらもどうすればいいか分からずに日々生活していたのだと考えられます。裕福な貴族の家でも例外ではなく、シャトーブリアン伯爵夫人の住居では、フランソワ1世が暖炉に用を足し、そこに隠れていたボニヴェ提督はびしょ濡れになってしまいました。大学の学寮においても同じことで、生徒たちは尿意を感じると中庭の壁に向かって用を済ませました。プライベート空間や公共の場に関係なく、パリのあらゆるところが臭っていたのです。ペストに襲われた16世紀のパリ
16世紀の始め、パリに再び疫病が流行り多くの人が死にました。その原因のほとんどは不衛生によるもので、1500年に高等法院は「街路の泥とごみを清掃し、街路の舗石のずれを直し、修理するように」命じていましたが、この命令は実行されませんでした。そのため国が清掃を担当し住民から税を徴収することになりました。1522年に高等法院は再び、トイレを備えていない家に住むすべての人に窓からごみを捨てないように命じています。1530年にペストがパリを襲った際に出された王令では、各家にトイレが設置されることを要求し、違反者には罰金を課しています。 16世紀頃、トイレは徐々に普及してきましたが、まだ一部の場所にしかありませんでした。16世紀後半には造幣局、宮廷、グラン・シャトレとプティ・シャトレ、ルーヴルにトイレがあったことが当時の汲み取り人の論文によって分かっています。当時のトイレには直接的な名前がなく、「隠れ場」(retrait)、「用足し場」(latrine)、「私用の場所」(prive)、「秘密の場」(lieux secrets)、「秘密の部屋」(chambre secrete)、「宮廷風の部屋」(chambre courtoise)などと呼ばれていました。王のトイレ
ところでフランス歴代の王はどんなトイレを使っていたのでしょう。フランス王は自分専用のトイレを様々な名前で呼んでいました。フィリップ5世のトイレは「安らぎの椅子」(selle aisee)と呼ばれ、ブリュネットという黒い羊毛の布地が装飾されていました。シャルル6世はトイレ用に高級な綿と麻屑を使用していました。シャルル6世の妃イザボー・ド・バヴィエールの携帯用トイレは「引きこもりの椅子」(chaise a retrait)と呼ばれ、色褪せのしない紺碧色のビロードで表張りされていました。ジャン王は「必要の鞍」(selle necessaire)と呼ばれるトイレを2つ所持しており、皮と毛織物のフェルトで覆われていたそうです。シャルロット・ダルブレは緑色の毛織物を張った穴あき椅子を持っていました。ロレーヌ公と公妃は彼らの紋章のあるビロードを張った「穴あき鞍」の上に天蓋を設けさせました。アンリ2世の娘エリザベートの「穴あき椅子」にもそれを取り囲むような形に金の縁飾りのある紫色のビロードを使った天蓋が設置されていました。ギーズ公は、穴あき椅子を天蓋の代わりにオランダの布と真紅のサテンで作った2枚の幕で囲んでいました。カトリーヌ・ド・メディシスは赤いビロード張りの「用足し椅子」を使っていました。アンリ3世が襲撃を受けたのは、肩に室内用ローブを掛けて穴あき椅子に座っていたときでした。15世紀、とあるオルレアン公は「必要の椅子」を使い、それは1オーヌ半の赤い薄い布が張られていました。とあるベリー公は身を屈めるのを嫌い、「4本の金の鎖で吊ったガラス製の便器」を使っていました。節約家のルイ11世は赤い毛織物のカバーがついた「穴あき椅子」を使っていました。マザランは錫製の容器と真紅の紋織物で作られたカバーのある木製の穴あき椅子で満足していました。メルクール夫人とその姪は緑色のサージを張り容器を備えた二脚の穴あき椅子と2個の錫製の室内壺を使っていました。ルイ15世は胡桃の木で作られた簡素な穴あき椅子で満足していました。ポンパドゥール夫人は高級家具店に穴あき椅子を発注していました。デュバリー夫人の穴あき椅子はすべて金、モロッコ革、ビロードで飾られていました。ルイ16世の時代、ヴェルサイユ宮殿にはトイレは1つしかなく、しかしその便器は大理石、陶器、マホガニーを用いてイギリス風に作られた快適なものだったそうです。トイレはまだチュイルリー宮殿にもサン・クルー宮殿にもなく、王がそちらの宮殿に住むときは特別の汲み取り担当官がいました。王や貴族にとって、穴あき椅子は長時間われを忘れることができる快適な座席だったそうです。王や貴族はそこで瞑想に耽り、そこで指示を出し、そこで人と相談し、そこでものを書きました。上流階級の婦人たちですら、臭いの漂う穴あき椅子の周りに親しい人が集まっても赤面することはありませんでした。10歳のルイ13世は穴あき椅子に腰かけて、ド・ヴァンドームとその兄弟を相手にトランプゲームに興じたそうです。アンリ4世の曾孫であるヴァンドーム公ルイ=ジョゼフは、穴あき椅子に座ったまま食事をし、皆の見ている前で食べた分量と同じくらいの量を排泄したそうです。それらの行為を不快に思う人はいても、まだ現在のように明らかなマナー違反ではなかったのかもしれませんし、当時の人の意識が今と異なっていたのだと思います。
ヴェルサイユ宮殿にさえ便器が1つしかなかった17世紀のパリ
17世紀になっても、パリでは相変わらずトイレが少なかったそうです(貴族の家でもトイレは少なく、代わりに穴あき椅子が普及していました)。シャトレ奉行所の規律行政官たちはパリの悪臭の原因は各家屋にトイレがないことであるとして、家屋所有者に1か月以内にトイレを設置することを200リーヴルの罰金付きで義務付けましたが、その約束はやはり守られませんでした。家にトイレがないということは、他の場所がトイレの代わりになっていたことを意味します。当然のようにパリの通りがその役目を果たしていました。パリに夕闇が迫るころになると、便器の中身が通りに投げ捨てられ、自然的欲求を我慢できない多くの人々は通りの隅で用を足しました。パリ市内で悪臭を発しない場所はなく、また安全に歩くことができる場所もありませんでした。交差点や教会の周囲、繁華な通りは恐ろしいことにパリジャンたちの糞便にまみれていました。裁判所などの大きな建物の片隅には、必ず糞便が見られました。王や貴族の住むルーヴル宮殿ですら、悪臭を放っていたといいます。サン=ジェルマン、ヴァンセンヌ、フォンテーヌブローの城館でも同じ状況だったそうです(例外としてヴェルサイユ宮殿には高級便器が1個だけありました)。宮廷の人たちはパリの一般大衆と同じく、中庭、階段、バルコニーで用を足すことになんの恥じらいも持っていませんでした(1606年8月8日、住居に使っていた部屋の壁に小便をしていた王太子が捕らえられました)。 このような悪臭の満ちたパリの状況に対して、一人のパリ市民が街路に公衆便所を設置するように呼びかける賢明な請願書を作成しています。請願書によれば、ルーヴル宮やパリの通りが耐え難い悪臭を放つ汚物で汚染されている状況を説明し、ペストの時期には極めて危険な状態になる可能性を的確に指摘しています。そしてその対応策としてパリの街路に公衆トイレ(穴あき椅子)を設置することを提案しています。自然的欲求を満たすために誰もが少量の金額でそれを利用でき、貧しい人は無料で使うことができれば、パリの町は清潔に保たれ、ペストなどの疫病も発生しにくくなると説いています。しかしその賢明な市民の意見は残念ながら聞き入れられることはありませんでした。
悪臭の残る18世紀のパリ
18世紀になっても、パリの悪臭は消えませんでした。各家庭のトイレは依然として少なく、造りが悪いせいか隣の井戸にまで汚物が浸み出していました。パリの通りに漂う悪臭も依然として同じままでした。この悪臭の都パリについてパラティーヌ女王は次のように語っています。「パリは恐ろしい。臭い、とても暑いところだ。街路は耐え難い悪臭に満ちている。極度の暑さは多くの肉や魚を腐らせる。さらに加えて、大勢の人々が街路で小便をする。これが吐き気を催すような臭気を引き起こしている。これには打つべき手がない」。通りで流された小便や街路に投げ捨てられた汚物は、当時通りの中央部に掘られた下水路を通ってゆっくりとセーヌ川に流れていきました。その下水路から放たれる悪臭は通りを歩くのを躊躇するほどでした。当時の人々はできる限り舗道の高い部分、特に家に沿った部分を歩くことに神経を集中させていました。このように18世紀になっても街路に汚物が捨てられていましたが、一部ではトイレから汲み取り人(フィフィ親方)によって汚物は回収されていました。当時の汲み取られた糞便はどこへいったのでしょう。 1722年のパリには糞便用に3か所の汚物捨て場がありました。サン=マルセル城外地区、サン=ジェルマン城外地区、そしてモンコーフォンのゴミ捨て場でした。各廃棄場に慎重に運び込まれた糞便は3年間溜めて置かれ、その後運び出すことが許可されました。これらの糞便は肥料として高い値がつけられました(近くの農民の中にはこの肥料を盗み出す人もいたようです)。これは江戸時代に民衆の家から出た糞便を肥やしとして活用した日本と似た発想です。また当時、「家庭用水を不衛生にする液体、塵芥、糞尿をセーヌ河に廃棄することを禁ずる」といった内容の王令が出されました。当初汲み取り人が各家庭から出された汚物をセーヌ河に捨てることが多かったためです。1721年にはサン=ルイ神学校の糞尿溜めの中身を道路に流していた汲み取り人の親方に50リーヴルの罰金が科せられました。
18世紀の後半になると、パリのトイレは徐々に増えてきました。とはいっても人々はまだ従来の穴あき椅子(おまる)の快適さを忘れることができず、完全にトイレに取って代わるまでにはあと1世紀の時間が必要でした。哲学者のジャン=ジャック・ルソーは穴あき椅子の上で時間がたつのを忘れたと言います。トイレは当時、「水のある小部屋」あるいは英国風に「ウォーター・クロゼット」と呼ばれ、引っ越しをするときにはその小部屋を新居まで運ばせたそうです。トイレという衛生の革新は徐々に広まっていき、完全な汲み取りシステムと悪臭の除去はパリ市民の強い願いとなっていきました。
パリではじめての公衆トイレ
パリ初の公衆トイレ(街路上に設置された最初のトイレ)は18世紀後半に誕生しました。とはいっても、現在のような形の公衆トイレではありませんでした。1763年、ある実業家が「突然緊急の必要に迫られた人々を受け入れるための便座を備え付けた固定型の手押し車を、街路のあちこちに設置させること」を計画しました。しかしこの計画はすぐには実現せず、8年後にサルティヌ氏によって実現しました。これによって人々は通りの隅で用を足して罰金刑を受けたりする心配もなくなり、パリの悪臭源を徐々に減らすことができました。しかしそれでも各家庭のトイレの設備はまだ不完全で、不衛生極まりない状態は長く続きました。汚物を流すはずの細い管は頻繁に詰まって破裂し、その悪臭が建物全体に広がっていました。 茂みで用を足す人が後を絶たずに悪臭を放っていたチュイルリー宮にもトイレができましたが、有料(2スー)だったため、チュイルリーの住人たちは用を足すのにパレ・ロワイヤルを利用したそうです。チュイルリー公園の木の陰で用を足した人も多かったそうです。パレ・ロワイヤルの所有者であったオルレアン公は急いで12個の有料トイレを設置し、そこはチュイルリー宮殿のトイレよりも人気となりました。パレ・ロワイヤルのトイレでは用を足すのに使う紙は無料で提供され、内部は清潔でしかも無臭でした。しかしそれでも、パリ全体から見れば悪臭はまだ消えていませんでした。フランス革命前のパリについてメルシエは「街には公衆便所がない。人通りの多い街路で整理的欲求に迫られたとき、人々はとても困惑する」と言っています。また1797年にあるフランス市民が次のように言っています。 「パリの不潔さには全く腹が立つ。我が国の上院議員のある首府だというのに屈辱的なことだ。一歩外を歩けば必ず汚水溜め、ゴミの山に瓦礫の山、ビンやコップの破片にぶつかるではないか。(中略)全ヨーロッパの趣味の手本といわれる女性たちも泥の中をちょこちょこ歩かざるを得ない。通りを一つ横切るために彼女たちがぐらぐらする板の上を渡らなければならないことも頻繁だ。泥の溝の中に落っこちやしないかとびくびくしているではないか。町をきれいにするための荷馬車までもが鼻にも目にも不快を与える汚物と化している。そして最後に男も女も品位と良俗に反して人目を憚らずに用便をしているのだ」
公衆トイレが広まった19世紀のパリ
フランス革命を経たあとも、パリの公衆衛生は19世紀中ごろまで旧制度からほとんど変わりませんでした。当時英国で水力利用の便器(ウォーター・クロゼット=WC)が発明され、それをレニャルディエ氏が完成品にしました。護民院などの一部の場所に英国式のWCが設置されましたが、一般の住民は大革命前と同じように詰まってあふれることが日常的な共同便所で我慢しなければなりませんでした。それは言ってみれば、排泄するための穴があるだけの不潔な小部屋です。そして今でも、便器に腰かけずに中腰で用を足すトルコ式便所がパリに残っているのは驚くべきことであり、それがまたパリらしさでもある気がします。公衆便所の歴史は19世紀初頭の第一帝政に始まり、パレ・ロワイヤルをはじめ、ヴィヴィエンヌ通り、チュイルリ公園、リュクサンブール公園などに設置されましたが、詳しい資料は残っていません。それは19世紀当時のフランスが性に関しての情報を明確に記述できない風潮にあったからだと言われています。しかし1816年のパリガイドブックにはトイレが「独特な施設」として曖昧に紹介され、場所は「ヴィヴィエンヌ通り、財務省の向かい」だったそうです。また1819年のガイドブックには、パレ・ロワイヤルの公衆トイレに関して「この上なく清潔な小部屋、鏡、勘定台にいる美しい女性、熱心に仕事をする従業員、すべてが感覚をうっとりさせ、客は要求される金額の10倍、20倍も多く支払う」と書かれています。しかしこのような公衆トイレ賛美の記述は例外で、パリに設置された多くの公衆トイレに関して抗議の記録が残されています。薬剤師クーヴェルシェルは公衆トイレについて「多くの場合雨ざらしであり、視覚と嗅覚に実に不快な印象を与えるので、この二つの感覚の欠けた者でなければ胸をむかつかせずにそこに近づくことは不可能であろう」と書いています。
歴史に残る公衆トイレ「ピソティエール」の誕生
七月王政時代(1830-1848)にセーヌ県知事となったランビュトーは、公衆便所の問題に取り組んだ最初の行政官でもありました(彼はまた病院制度の改革や上下水道の改善に取り組みました)。彼は1833年にセーヌ県知事に任命されて以来、長年パリを苦しめてきたトイレの問題に本格的に取り組みました。彼は当時としては先駆的なエコロジストで、「公衆トイレの父」ともいえる存在です。 1835年に小便所の問題を検討する委員会が開催され、1841年にパリ初の本格的な公衆トイレ(男性用)が大通りの真ん中に設置されました。ランビュトーの発案となるそのトイレは、玉ねぎ型の屋根を冠した円柱状の塔(もしくはガス灯)の周りを鉄製の壁が取り囲むような形をしていました。塔の壁には劇場などの広告が貼られ、広告収入が得られる仕組みです。1843年のパリにはそのトイレが468基あったそうです。またそれはパリ市庁舎からチュイルリー公園にかけてのセーヌ右岸の歩道上に立てられましたが、その東洋の寺院を思わせる円柱状の形がパリの景観にそぐわないとして多くの批判を浴びたそうです。しかし、多くの市民にとってそこは慎みを持ちながら用を足せる素晴らしい塔として称賛されました。19世紀のトイレを撮影したマルヴィル
19世紀のトイレの写真は貴重な史料です。それを撮影したのは写真家のシャルル・マルヴィル(1816-1878)。ルーヴル美術館専属カメラマンだった彼は、パリ市の依頼によって街の新しいインフラとなった公衆トイレを客観的な視点で記録に残しました。
今も現存する19世紀のトイレ
19世紀型トイレのほとんどが撤去されましたが、「エスカルゴ」と呼ばれた2人用のトイレがパリ市内に2ヵ所(サンテ刑務所の外壁付近とミラボー駅付近)残っています。
想像を絶する臭いの源 パリのゴミ捨て場モンコーフォン
トイレの汲み取りは19世紀になってポンプ式を採用して短期間での作業が可能になりましたが、廃棄場への運搬は大革命前とほとんど変わっていませんでした。リムーザン出身の汲み取り人たちによって汲み取られた汚物は円錐台形の肥桶に入れられて、荷車に大量に詰め込まれてモンコーフォンへ運ばれました。狭いパリの街路を通る運搬車の音は砲兵部隊のような騒音をまきちらし、両側の家々を揺らせました。そしてその振動で荷台に乗せられていた肥桶から汚物が流れ出し、パリの街を汚染していたそうです。19世紀の初頭からパリに空気汚染物質の存在がつきとめられていたのは、当然のことなのかもしれません。それはアンモニア硫化物と硫化水素からなる混合物で、卵の腐ったような悪臭を放っていたそうです。この物質の中毒性により、トイレの汲み取り人を死に至らせることもあったというから、当時のパリがいかに悪臭の漂う不衛生な町であったかが分かります。当時の一大廃棄場であったモンコーフォンはまさに想像を絶する地獄のような場所だったと言われています。広大な排泄物の池が数年間溜めておかれ、徐々に発酵していきました。その一部はサン・マルタン運河を通ってセーヌ河に注ぎ、地中に注ぎ込んだものは周辺の井戸を汚染しました。またモンコーフォンから放たれる悪臭は北東からの風にあおられてパリに達しました。廃棄場の近くに住む住民たちが切実な苦情を訴え続けたのも当然のことと言えます。さらにモンコーフォンではアルザス人によって動物の死体の解体処理も行われており、その悪臭漂う地獄のような風景は世界のあらゆる不潔なものを集めても足りないほどだったと言われています。廃棄場移転の問題は何度も挙げられましたが延期され、モンコーフォンが完全に使用禁止になったのは1849年になってからでした。このように19世紀前半まで、パリはいわばフタのない巨大な汚水溜めの毒にさらされ続けていたのです。
臭いの魔窟パリの冷静な観察者であった作家バルザックは次のように言っています。 「大多数の市民の住んでいる家の空気が悪臭を放ち、巷の大気が店の裏部屋にひどい瘴気を吐き出して、息もできないありさまであろうとも、まだこうした非衛生のほかに、この大都市の四万の家々がごみくずの山の中に足を突っ込んでいることを知るべきである。しかも市当局は、それをセメントの壁で囲って悪臭ぷんぷんたる塵芥が地面にしみこんで井戸を汚すのをふせぎ、古くからリュテース(沼沢の地)と異名をとったパリが、その雄名を地下において維持するのをとめようと真剣に望んだためしがない。パリのなかばは、裏庭と街並みと便所の発散する臭気のなかに横たわっている」
モンコーフォンが閉鎖された後、新しい廃棄場はヴィレットの家畜上の隣に移転しました。パリ で汲み取られた汚物はウルク運河を使って廃棄場まで運ばれ、そこから導管を通ってボンディの森にある8つの池に運ばれました。
パラン=デュシャトレの活躍
排泄物による害に対する解決策を打ち立てたのは前述したパラン=デュシャトレというブルジョワの市民でした。彼は下水の魅力に魅せられ、下水で働く人々を真の友情を持ち最も幸福な場所で働く人々だと語り、自ら下水に入って行って防止工事の陣頭指揮を行い、1832年にパリでコレラが発生したときは救護班を組織しました。そしてモンコーフォン廃棄場の閉鎖を検討する際にもパラン=デュシャトレは積極的な役割を果たしました。また19世紀の風俗研究の基礎資料となる多くの著作を残しています。いまだにトイレが軽視され続けていた19世紀後半のパリ
ナポレオン三世による第二帝政以降、ブルジョワの住居は大きく改善されましたが、調理場とトイレだけはいまだ重要視されずに一番見えにくい奥へとしまい込まれていました。アパートの最上階まで上水がいきわたるようになるのは1865年のことで、それまではトイレを含む浴室は日常的に使われない場所として重要視されていませんでした(フランス人に体を水で洗うという習慣がありませんでした)。水が衛生上大事なものとして認識されるようになるのは、パストゥールによって衛生問題が取り上げられるようになってからのことでした。またブルジョワ階級の住民がWCを使用した最初の人々でしたが、彼らがそのトイレを日常的に使うまでには長い時間がかかったそうです。つまり、しばらくは古いタイプの汲み取り式を使っていましたし、庶民の家ではまだ汲み取り式の共同便所が多く、その異様な臭気と湿気が常にアパート住民を苦しめていました。学校のトイレも衛生がよいとは言えませんでした。当時の小学校のトイレは生徒の数に対応できず悪臭の発生源になっていました。1854年と1865年にはフランスで初めて飲料の販売店にトイレを設置するように義務付ける通達が出されました。第二帝政時代にもランビュトーの円柱型トイレは残っていましたが、トイレの壁に広告が貼ってあることに不平を言う人が増え、のちに広告はモリス広告塔という専用の円柱に移動しました。1863年版のブルーガイドでは「パリには市場の近くや橋のたもとなどに無料の公共トイレがある。たしかに清潔に保たれ監視がされていう。にもかかわらず、それらのトイレのほとんどが近寄りがたいしろものである」と説明されています。1867年のパリ万博向けガイドブックでは無料ではなく有料トイレがおすすめされ、それはパレ・ロワイヤルやシャンゼリゼ大通り、パサージュなどの一部の場所に設置されていました。依然として無料の公衆トイレはパリ市民にとって気軽に使うことができない施設でした。
プルーストが描いた公衆トイレ
19世紀型の有料水洗トイレは文学にも登場します。20世紀を代表する小説として有名な『失われた時を求めて』(マルセル・プルースト作)には、シャンゼリゼ公園にある公衆トイレのエピソードが登場します。緑色をした建物は少年時代の主人公にとっては「入市税関の建物」のようでもあり、そこにはトイレを管理するおばさん「マダム・ピピ」がいました(当時の有料水洗トイレには料金を徴収する女性がいました)。主人公はトイレのひんやりとしたかび臭いから「無意識的記憶」を呼び覚まし、故郷コンブレーに住む叔父さんの部屋を思い出します。このトイレはプチ・パレ近くの「マルセル・プルーストの散歩道」と呼ばれる小径に今も残っています。
セーヌ河の汚染
1876年にはセーヌ河の汚染は誰の目にも明らかでした。クリシーの下水放水口からマントまではパリの各家庭から出される排水によって汚染され、黒ずんでいました。 1885年パリ市当局の代表者の一人であるブールヌヴィル医師は、セーヌの汚染状況について次のように報告しています。「セーヌ河は右岸沿いでは正真正銘の蓋なしの下水である。水は濁り、色がつき、油ぎった泡におおわれている。酸素は腐敗進行中の有機物にほとんど完全に吸収されて存在しない。夏期には常時起こる発酵のために川の水は泡立ち、底の汚物が表面に浮かび上がり、時に直径1メートルにも達する巨大な泡となって沼沢性ガスが発生する。河岸には黒ずんだおりがべっとりついている。幹線渠の開口部では砂や他の重い物質が黒く悪臭を持つ巨大な泥層を成し、その厚さは0.65メートルから3メートルまでになり、これらの開口部からマルリーまで延びている」
衛生学者たちの活躍
1883年には衛生学者たちが近代的なトイレを支持してキャンペーンを行い、特にナピアス医師が大きな役割を果たしました。彼の要求が最初にかなえられたのは1884年に建設された18区の協同組合非営利消費団体のための低家賃集合住宅においてで、各住居にWCが設置されました。そして1894年の県条例では、衛生改善派の願いがかなえられる内容になっていました。トイレに関する条約の部分を要約すれば、各々のアパルトマンには1か所のトイレを必ず設置し、また排泄物を速やかに公共下水道に押し流すための装置を取り付けなければならないことを義務付けるものでした。この頃には便座も今のトイレと変わらない上げ下ろし可能のものになっていました。水洗装置つきのトイレが成功するためには、排泄物を完全に流すための水の供給が不可欠でした。パリではヴァンヌ川、ラ・デュイ川、アーヴル川、ルワン川、リュナン川からの水によって実現していました。
実現が難しかった女性用トイレ
19世紀のパリでは様々な業者による公衆トイレが生まれましたが、まだ女性のためのトイレはなく、女性は街路での自然的欲求をがまんするしかありませんでした。たとえばパリで最も人口の多い地区にある女子小学校でさえ、トイレが一軒のカフェと共同でした。ただ第2帝政期以降は高いお金を払って公衆トイレを利用することができたそうです。1865年、サン=シュルピス広場に「5サンチーム無臭小房」があり、また高級地区であるマドレーヌ広場には鐘楼型装飾がつけられた「15サンチームWC」がありました。高い使用料を払えば、臭いのない豪華な公衆トイレを使うことができたのです。そんな公衆トイレの中でも特に豪華だったのはシャンゼリゼ公園に設置されたネオクラシック風の小神殿でした。建築家エミール・ゴードリエによって1874年に造られた公衆トイレで、正面にはパリの切石を用いて作られた棕櫚葉装飾がつけられていました。それでも19世紀後半のパリ市内に女性のためのトイレはまだ少なく、ある技師が男女両方が使えるWCの設置を強く求めましたが実現せず、10年後の1891年にパリ市議会の間で男女ともに無料のトイレの設置が議題に上がりました。このとき専門家による様々なトイレ案が出ましたが、実現には至りませんでした。当時は公衆道徳の専門家は男性であったので、女性の意見はほとんど通らなかったのです。女性用の公衆トイレの誕生は20世紀を待たなければいけませんでした。初の女性用トイレの誕生
1905年、マドレーヌ広場の花市場の地下に巨大な公衆トイレが設置されました。広さ165平方メートル、高さ3.4メートルという広大な空間で、男性用22人分の小便用仕切りと13基の陶製自動水洗WC、そして女性用の14人分のWCとビデ付き化粧室が4室ありました。壁は流行素材である白いレンガ、床は陶製タイルで、頑丈なマホガニー材や銅製の配管を使い、換気装置も備えた最新の設備でした。まだ有料(一部は無料)ではありましたが、朝7時から深夜まで営業しており、安全に管理された公衆トイレの誕生は、近代都市パリの始まりでもありました。その後同じ設備をもった公衆トイレがヴィクトリア大通り、ボン・ヌーヴェル大通り、バスティーユ広場にもできました。1930年代に始まった路上公衆トイレの撤去
20世紀にはパリの公衆トイレは一般的になっていましたが、一部で市議会議員によるトイレの撤去が行われていました。それはスレート板でできたトイレが路上で目立ち、通行人にとってトイレ内にいる人の動作が分かって不快という理由でした。医学会が必要だと説明したにも関わらず、1930年代には路上にある男性用の公衆トイレが撤去されていきました。1930年に1230あったパリの路上の公衆トイレは、1939年には700にまで減り、1950年には558にまで減少しています。ル・コルビュジェが礼賛した便器
現在のような白い陶製のWC便器が日常的に使われるようになったのは2つの世界大戦の間の時期からでした。スイスの建築家ル・コルビュジェは、この便器に不朽の美しさを感じた人間の一人でした。彼は自分の住居を訪れた写真家ブラッサイにこう言っています。「これは工業が生産した最も美しい品物の一つだ。ここに崇高な人間の顔のあらゆる官能的な曲線が、その欠点を除いた形で、現れているのだ。ギリシア人もこのような文化の頂点には一度も達したことがない」。1980年に現れた最新の公衆トイレ
1980年、パリに3基の最新式公衆トイレが試験的に設置されました。「サニゼット」と呼ばれる自動管理式の公衆トイレで、その1つがポンピドゥーセンターの近くに置かれました。トイレの番人が管理する必要がなく誰もが用を足せるトイレで、室内は明るく暖房・換気装置が備わっていました。20世紀の始めにできたマドレーヌ広場の公衆トイレの快適さの伝統が引き継がれ、さらなる進化として使用後の自動洗浄装置が完備されていました。それは今までのパリのトイレの歴史からすると信じられない装置でした。1回使用するごとに高速回転ブラシと高圧噴流による45秒間の自動洗浄が行われ、便器は再び使用前の状態に戻る仕組みでした。サニゼットはすぐにパリジャンの間で好評となり、翌年パリ市長はパリに150基のサニゼットを設置する決定をしました。その後パリのトイレは改良され、学校や公共の建物、レストランなどでも快適にトイレを使うことができるようになっていきました。ときに高級レストランにあるトイレでは室内がアールヌーヴォー風で、柔らかなタオルとオーデコロンの小瓶が添えられているところもあったようです。最近になってようやくフランス人はブルジョワジーによる前時代的なトイレへの嫌悪から脱し、解放的で近代的な精神を獲得したと言えます。中世のパリから20世紀のトイレの変遷を見るとき、それはまさに衛生における地獄から天国への歴史、フランス人の精神の歴史といえるでしょう。
増え続けるパリの公衆トイレ
最近では外国人観光客を増やす対策としても、パリ市内における公衆トイレの設置は重要な課題の一つとなっています。2015年11月に発生したパリ同時多発テロの影響で2016年の訪問者数が大幅に減少しました。これを受け、パリ市はサニゼット(公衆トイレ)を200個増設することを発表しました(そのうち50は有料トイレ)。これはパリの観光産業を回復させるための大きな施策の一つで、今後はパリ市内で美しい公衆トイレが見られるようになる予定です。2022年にはパリ市内に430以上のトイレが設置されています。関連するパリ観光
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パリラマはパリを紹介する観光情報サイトです。パリの人気観光地からあまり知られていない穴場まで、パリのあらゆる場所の魅力を提供することを目的としています。情報は変更される場合があります。最新情報はそれぞれの公式サイト等でご確認ください。
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