オテル・リッツ
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フランスで一番豪華なホテル
高級ブランドが集まる世界で一番豪華な広場と言われるパリ1区のヴァンドーム広場。その広場の15番地にあるのがオテル・リッツ。世界有数のラグジュアリーな5つ星ホテルで、スイスの実業家セザール・リッツと料理人オーギュスト・エスコフィエによって設立されました。1898年6月1日に公式オープンし、各国の著名人が集まりました。その後リッツはココ・シャネル、アーネスト・ヘミングウェイ、チャーリー・チャップリン、マレーネ・ディートリッヒ、マルセル・プルーストなど、多くの俳優・作家を顧客にしました。世界で最も豪華なホテルです。オテル・リッツの建物・内装・設備について
オテル・リッツはパリで最も高価なホテルと言われています。ホテルに使われた建物は、もともとルイ14世の時代の宮殿で、ファサードは17世紀に建築家マンサールによって造られたもの。豪華な客室をそれぞれ独自にアレンジした内装は多くの著名人に好評で、またヨーロッパで初めて各部屋に浴室・電気が完備されたホテルでした。スイート・アンペリアルはオテル・リッツの部屋の中でも最も高価な客室で、フランスの歴史的建造物にもなっています。室内にはマリー・アントワネットのものと同じベッドやルイ16世様式の寝室があります。ダイアナ元皇太子妃が最後の食事をとったのもこのスイートでした。他にもルイ14世様式の家具でしつらえられたヴァンドーム・スイートやルイ15世様式の家具で調えられたセザール・リッツ・スイートなどがあります。18世紀の羽目板や天井の寓意画で飾られたこれらのスイートは、耽美主義者のための贅沢な空間です。ホテル内の施設では、世界的に有名なミシュラン2つ星レストラン「レスパドン」(L'Espadon)やヘミングウェイが通った「バー・ヘミングウェイ」、セレブも集まる「ザ・リッツ・バー」、朝食がとれる「バー・ヴァンドーム」などがあります。オテル・リッツ設立者セザール・リッツの生涯
オテル・リッツの設立者セザール・リッツは1850年生まれのスイス人です。1867年のパリ万博のときにパリへ渡り、スイス館にて給仕の仕事をします。その後靴磨きや売春宿のドアマンの仕事など様々な職を経験し、ようやくパリで一流レストランのウェイターの職を得て働き、才能が認められて支配人にまで昇格します。しかし普仏戦争後によってパリ市内は深刻な食糧不足になり、セザール・リッツはスイスへ戻って職を再び転々とします。70年代後半から80年代にかけては、セザールにとって名声の時代でした。1877年にモンテカルロのグランドホテル、1880年にスイスのグランドナショナルホテルで支配人となり、様々な趣向を凝らした経営方針で売り上げを伸ばします。ホテル業界で初めて各客室にトイレとバスタブを完備したのもセザールでした。それまでヨーロッパのホテルには共同のシャワールームしかありませんでした。19世紀のリゾート地リビエラでのコレラ蔓延で、客足が遠のいたことが彼の衛生面での意識を厳しくさせたそうです。
1884年にはニース生まれの料理人オーギュスト・エスコフィエ(Auguste Escoffier)をモンテカルロのグランドホテルの料理長に迎え、またプリンス・オブ・ウェールズ(後のエドワード7世)をパトロンにして、ホテル経営者としての才能を伸ばしていきます。1888年にはグランドホテルのオーナーの姪であったマリー=ルイーズと結婚。1889年にはロンドンのサヴォイホテルでも働くようになり、忙しい日々が続きます。
しかし仕入書の改ざんや金銭着服などの不祥事が発覚したセザールと料理人エスコフィエは、サヴォイホテルを解雇されます。その後1898年、セザール・リッツは借金をしてパリ1区にあるヴァンドーム広場の土地を買い、パートナーのエスコフィエと共にオテル・リッツ(ザ・リッツ・ホテル)をオープンさせました。その後マドリードやロンドンなどリッツ経営のホテルを世界に展開していきます(ロンドンではザ・カールトン・ロンドン)。顧客優先の今までにないサービスでオテル・リッツを成功させたセザール・リッツは世界的に有名になりますが、その後彼は劣等感(文盲であったと言われています)や孤独感に苛まれ、5カ国にある自身のホテル経営の仕事で次第に疲労していきました。
1902年パトロンであったエドワード7世の戴冠式が王の病気で延期され、セザールはショックのために精神病にかかります。その後病状は回復することはなく、1918年にスイス・ルツェルンの療養所で亡くなりました。その後セザールの妻マリーが彼の意思を引き継いでヨーロッパならではのホテル経営を拡大させていきます。現在もオテル・リッツは世界で一番豪華なホテルとして営業を続け、彼のホテルサービスに対する情熱はアメリカのブランドであるザ・リッツ・カールトン(1927〜)にも受け継がれています。
ヘミングウェイが愛したホテル
オテル・リッツはアメリカの作家ヘミングウェイが愛したホテルとしても有名です。1921年パリに初めてやってきたとき、ヘミングウェイはこのホテルのバーでお酒を一杯飲むこともできませんでした。彼はそのときまだ無名で金銭的余裕もなかったのです。その後、パリで小説を書いて成功を収めてからは、まさに自分の家のようにこのホテルを利用するようになります。オテル・リッツは彼の作品の中で描写され、彼の長編デビュー作『日はまた昇る』では主人公ジェイクとヒロインの待ち合わせのシーンで登場します。第二次世界大戦中の1944年8月、ドイツ軍に占領されていたパリでオテル・リッツのワイン蔵を解放したのは、ヘミングウェイと彼が率いる自由フランス・レジスタンスの一団でした。埃だらけのヘミングウェイたちは、リッツのロビーに駆け込みました。リッツに到着してヘミングウェイが最初に注文したのは73年物のドライ・マティーニでした。
戦後のある時期、ヘミングウェイは31号室に泊まり、滞在中のほとんどの夜を86号室のメアリー・ウォルシュと過ごしたそうです。ヘミングウェイが彼女にプロポーズしたのもその部屋でした。また同じ頃オテル・リッツには女優マレーネ・ディートリッヒが暮らしていて、よくヘミングウェイの部屋に遊びに行ったそうです。彼はその後、メアリーと4度目の結婚をします。 バー・ヘミングウェイは、カンボン通りに面したリッツの裏口にあった小さなバーでした。ホテル内にあるこのバーをヘミングウェイはどこよりも気に入っていました。ヘミングウェイが飲んだ場所で彼が愛したウイスキーを飲むことができます。壁にはヘミングウェイの写真が飾られ、カウンターには彼の胸像が置かれていて、さながらヘミングウェイの記憶の場所といった感じです。木を主調とした柔らかなインテリアが特徴です。
1956年にホテルを再訪したヘミングウェイはホテルから古びたスーツケースを贈られます。その中には鉛筆で書き込まれたノートブック10数冊とタイプライターで打たれた短編や原稿が詰め込まれていたそうです。それは1927年、若き日のヘミングウェイがホテルに預けたまま忘れていたものでした。遠い時を経て戻って来たこれらの原稿が、晩年のエッセイ『移動祝祭日』のモチーフとなりました。
ダイアナ元皇太子妃が最後の夜を過ごしたホテル
オテル・リッツはパリで交通事故死したダイアナ元皇太子妃が事故の前日に最後の食事をした場所でした。彼女は当時のオテル・リッツの所有者モハメド・アルファイドの息子ドディ・アルファイドとインペリアル・スイートで食事をとったあと、アルマ橋地下のトンネルで起きた自動車事故で亡くなりました。ココ・シャネルが暮らしていた
世界的に有名なファッションデザイナー、ココ・シャネルはオテル・リッツに30年間暮らしていました。オテル・リッツが登場した小説・映画
アーネスト・ヘミングウェイ『日はまた昇る』スコット・フィッツジェラルド『夜はやさし』
ビリー・ワイルダー『昼下がりの情事』 他
- パリ観光基本情報
- オテル・リッツ / Hotel Ritz
- パリの観光地
- オープン:1898年
- 住所:15 Place Vendome 75001 Paris
- 最寄メトロ:Tuileries(チュイルリー)、Opera(オペラ)
- エリア:
- カテゴリ:パリの観光スポット
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オテル・リッツへのアクセス(地図)
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