ギャルリ・コルベール
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美しすぎたパサージュ
ヴィヴィエンヌ通りを歩いていると、シックな佇まいの入口が見えます。中は暗く、入口には手荷物検査の係員が。この少し入りにくそうな施設はギャルリ・コルベール。パリに残るパサージュ(19世紀の屋根つきの抜け道)の一つです。その美しさは近くにあるギャルリ・ヴィヴィエンヌと競うほどでしたが、その美しすぎる内装ゆえにやってくる人は少なく、今でもその通路は暗い静寂に保たれています。入口に係員がいるのは、ここが国立図書館の管轄になったため。とはいっても誰でも入れるので、パリ散策の合間に訪れてみるのもいいかもしれません。特にパサージュの中にあるロトンド(円形空間)の美しさは必見です。ギャルリ・コルベールの歴史
ギャルリ・コルベールはアダム商会によって1826年に完成したパサージュ。前年にできたギャルリ・ヴィヴィエンヌが非常に人気を博したため、その隣に作られることになりました。コルベールという名前は、この土地にあった建築家ルイ・ル・ヴォー設計のホテル・コルベールから(このホテルはルイ14世の財務長官コルベールの所有でした)。完成当時はポンペイ様式の大理石で彩られたロトンドの美しさが評判になり、多くの雑誌で取り上げられました。ロトンドの中央にはココナッツの木を模したブロンズの彫刻があり、室内を照らしていました。その均整のとれたパサージュは、「一つの芸術作品」(モニトゥール・ユニヴェルセル紙)とまで言われていました。美しすぎたために人が集まらず
しかしその美しさとは裏腹に、ギャルリ・ヴィヴィエンヌの人気は高まりませんでした。オープン当初はその美しさを見に多くの人がやってきましたが、その美しすぎる空間故に、徐々にパリ市民はこのパサージュを敬遠するようになってしまいます。隣のギャルリ・ヴィヴィエンヌが活気溢れるパサージュだったのとは対照的で、その人気のなさを悩んだギャルリの経営者は、ジェオラマ(地球の神秘を見せる光学装置)という見世物を出したりパレ・ロワイヤルからの人の流れを呼び込むために新たな通路(パサージュ・コルベール)を作ったりしました。しかしどのアイディアも成果は出せず、当初の人気を取り戻すことはできませんでした。娼婦のたまり場となり、忘れられた存在に
その後、ギャルリ・コルベールは、パサージュ内のホテル付きカフェが娼婦のたまり場になるなど、衰退の一途をたどります。七月王政でルイ・フィリップがパレ・ロワイヤルから娼婦を追放すると、ギャルリ・コルベールの人通りはほとんどなくなります。各メディアに称賛されたロトンドも最終的にはガレージとして使用され、昔日の面影はなくなっていきました。第2帝政下にはパレ・ロワイヤル周辺の活気は失せ、隣のギャルリ・ヴィヴィエンヌとともに、歴史の暗がりに埋もれてしまったかのようにパリ市民に忘れられた存在になってしまいます。その当時、盛り場はすでにグランブールヴァールに移っていました。1859年にはフランス学士院に寄贈されています。国立図書館分館として生まれ変わる
衰退の一途をたどっていたギャルリ・コルベールが生まれ変わったのは1985年。国立図書館によってその土地が買い取られ、パサージュが修復されました。パサージュの痛みが激しかったため、当初は完全に解体予定でしたが、建築家ルイ・ブランシェの設計によって当初のパサージュが復元されることになりました。現在そのパサージュを歩くと、その静寂と薄暗さに驚かされます。あるのは白昼夢のような白い光だけ。人通りの少なさは当時と同じで、ブティックなどのテナントは入っていません。ただただ静かな空間の中で、美しいロトンドがまるで清潔な廃墟のように散策者の訪問を待っています。人のいない美術館といえばよいでしょうか。ヴィヴィエンヌ通り側には荷物検査がありますが、プティ・シャン通り側からは検査もなく入ることができるようです。パサージュ内には当時を偲ばせるレストラン「グラン・コルベール」もあるので、パリ散策の休憩に入ってみるのもいいかもしれません。
- パリ観光基本情報
- ギャルリ・コルベール / Galerie Colbert
- パリの観光地
- オープン:1826年
- 住所:rue des Petits Champs6番地とrue Vivienne2番地の間
- 最寄メトロ:Bourse(ブルス)、Pyramides(ピラミッド)、Palais Royal-Musee du Louvre(パレ・ロワイヤル・ミュゼ・ドゥ・ルーヴル)
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- カテゴリ:パリの観光スポット
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ギャルリ・コルベールへのアクセス(地図)
ギャルリ・コルベールへのアクセス(地図)