パサージュ・デ・プランス
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パリにできた最後のパサージュ
今回はあまり知られていないパリのパサージュをご案内します。オペラ座からイタリアン通りに沿って歩いていくと、右手に入り口が見えてきます。パサージュ・デ・プランスはイタリアン通りとリシュリュー通りの間にあるパサージュで、緩やかなL字型の形をしています。第2帝政期の1860年にオープンしたパリで最後のパサージュです。鉄骨の骨組みにガス灯の配備など、19世紀の最高技術が使われています。当時パリ随一の盛り場だったグラン・ブールヴァール(大通り)に面したパサージュですが、今では訪れる人も少なく閑散としています。オープン後1ヶ月で人気急落
パサージュ・デ・プランスは銀行家ミレスによって1860年に完成しました。もともとオテル・デ・プランス・エ・ド・ルーロップという高級ホテルがあった土地をミレスが買収し、パサージュ建設が始まりました。ここは当時パリ最大の繁華街であったブールヴァール・デ・ジタリアン(イタリアン大通り)と金融街とを結ぶこれ以上ない好立地でした。また当時人気だったパサージュ・ジュフロワやパサージュ・デ・パノラマにも近く、イタリアン大通りをはさんで向かいにあったパサージュ・ド・ロペラ(現存せず)の客が流れ込むことも予想され、最高の立地条件の中でのオープンだったのです。 しかしオープンから1ヵ月後、パサージュ・デ・プランスに不運が襲いかかります。経営母体であったミレス銀行が倒産し、ミレスが逮捕されることになりました。パサージュ・デ・プランスの権利は債権者であったコンパニ・ダシュランス・ジェネラルに移り、パサージュの人気はわずか1ヶ月で急落してしまいました。急落に追い討ちをかけたオペラ座の移転
経営者の逮捕によって急落していったパサージュ・デ・プランスでしたが、人通りの少なさゆえにパリの散策者には好まれました。私娼のいない健全で商業的なパサージュとして評価はされていたようです。文学史に残る文芸レストラン「ペーテル」もあり、パルナス派の詩人たちのたまり場にもなっていました。 しかしパサージュ・デ・プランスのその後の運命を決定的にしたのは、旧オペラ座の移転でした。オペラ座がルペルティエ通りから現在のオペラ座に移り、それによって通りの向かいにあったパサージュ・ド・ロペラは取り壊しが決定しました。1925年にパサージュ・ド・ロペラが取り壊されると、ぽつんと1つだけ残ったパサージュ・デ・プランスはさらに人通りが途絶えて、徐々に衰退していきました。1990年に取り壊され、5年後にリニューアル
それでも20世紀の最後まで生き延びたパサージュ・デ・プランスでしたが、1990年7月についに取り壊しが決定します。その後1995年にリニューアルオープンし、パサージュの内部は格調高い当時の雰囲気に近い形で復元されました。 しかしリニューアル後も人気は出ず、何度も店が変わり、現在はジュエ・クラブによる大型のおもちゃ屋がパサージュの店舗全てを貸し切って営業しています。今も19世紀の盛り場だったグランブールヴァールに面していますが、実際に当時のパサージュの面影をとどめているのはリシュリュー通り側の入り口のほうです。静かな空間を好まれる方は、是非このパサージュを訪れてみてください。- パリ観光基本情報
- パサージュ・デ・プランス / Passage des Princes
- パリの観光地
- オープン:1860年
- 住所:イタリアン大通りとリシュリュー通りの間
- 最寄メトロ:Richelieu-Drouot(リシュリュー・ドゥルオ)
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- カテゴリ:パリの観光スポット
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パサージュ・デ・プランスへのアクセス(地図)
パサージュ・デ・プランスへのアクセス(地図)