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パリの人気地区:シテ島

シテ島

ルテティアと呼ばれたパリ発祥の地   
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シテ島

パリの発祥となった島

シテ島はパリのセーヌ河にある島。パリの中心にあり、「パリ発祥の地」として知られています。パリの祖となった古代都市ルテティア(リュテス)はこの島から始まりました。ここは今でもパリ観光の中心地でもあり、観光の目玉であるノートルダム大聖堂やステンドグラスが美しいサント=シャペル、マリー・アントワネットが投獄されていたコンシェルジュリーがあります。セーヌ河を眺められるヴェール・ギャラン公園や中世の面影を残すエリアもあり、散策に最適のスポットです。隣にある島はサン・ルイ島で、静かな田舎のような雰囲気を残す高級住宅街となっています。

パリの始まりの場所

紀元前、パリはまだ川の流れる辺境の地でした。川というのは現在のセーヌ。辺りは沼地で、灌木が生えているだけの何もない場所でした。その川の中の島にパリシイ族が住み着きました(パリ近郊のナンテールがパリシイ族が最初に住みついた場所とも言われています)。それが現在のシテ島です。セーヌ川の浅瀬にあったシテ島は石灰岩の地質で、人が住む場所としては最適でした。当時はセーヌ川の北部にもう一本川が弧を描くように流れていて、セーヌとその川の間が沼地になっていました。この辺りが現在のマレ地区(Marais=沼地)です。セーヌ北部である右岸が沼地だったため、パリの町はシテ島を中心として南部の左岸に広がっていきました。

最初にこの地に住み始めたパリシイ族はセーヌ河で漁業をして生活するケルト系民族でした。紀元前3世紀ころのことで、パリという街の名前は彼らにちなんでいます(当時はまだパリとは呼ばれていませんでした)。その後、カエサル率いるローマ軍のガリア遠征により、この島は征服されローマ都市として発展していきます(当時フランス周辺はガリアと呼ばれていました)。ローマ人が住むようになってからは、「川の中の住処」を意味するラテン語で「ルテティア」(リュテスとも)と呼ばれ、この名前は4世紀頃まで使われました。ローマ人によって征服されはしましたが、先住民族であったパリシイ人たちも共同生活し、お互いに意見を出し合って都市建設が進んだと言われています。共同浴場はその一例です。

それから500年の月日が流れ、506年、フランク族の王クロヴィスがこの島を首都(シテ)と宣言したことから「シテ島」(首都の島)と呼ばれるようになります。1345年には島内にノートルダム大聖堂が200年の歳月を経て完成し、街は大きな発展を見せていきます。14世紀には国王の宮殿が造られ、パリはシテ島を中心に発展しました。当時の豪華な宮殿の一部(円天井)はコンシェルジュリーの中で見ることができます。

また中世まではシテ島の西端に3つの小島がありました。その一つがトレーユ島と呼ばれていて、のちにシテ島とつながり、現在はヴェール・ガラン公園になっています。まだこの頃はパリのセーヌ川には島が多く、シテ島の隣にあるサン・ルイ島の近くにもルーヴィエ島と呼ばれる小島がありました。こちらは19世紀半ばに埋め立てられパリ右岸の一部になってしまいました。

シテ島を中心に発展していったパリの街ですが、中世以降は無秩序な建築と悪臭と人口密度でひどい状態になり、犯罪者の巣窟にもなりました。19世紀にその密度は頂点を迎え、大聖堂の周りにはそんな民家が密集してスラム街のような状態になっていたのです。1853年にオスマン改造によりシテ島の一大改造が決定され、大聖堂、サント=シャペル、コンシェルジュリーを除くすべての建物が変えられました。そして今のような形のシテ島が誕生しました。パリは意外にも150年前に新しく模様替えされた街なんですね。それでも街は150年は変化していないことになりますから、少しでも古くなったら建て替えばかりしている日本から見ればすごいことです。

シテ島の人気観光スポット

(1)ノートルダム大聖堂

ノートルダム大聖堂はゴシック様式を代表する建物で、パリ随一の観光名所です。パリ発祥の地シテ島に建つ大聖堂で、1163年に建造が始まり200年の歳月をかけて1345年(1350年)に完成しました。すでに700年近い歴史を持っています。19世紀に建築家ヴィオレ・ル・ドュックが修復しました。ノートル・ダムとは「われらの貴婦人」という意味で、聖母マリアを讃えています。ヴィクトル・ユーゴーの小説「Notre-Dame de Paris(ノートルダムのせむし男)」の舞台として有名。写真などでよく見るイメージは正面の外観ですが、背後から眺めるノートルダム(写真)もまた趣があります。その姿は巨大な甲殻類のようにも見えます。内部のステンドグラス(バラ窓)や建物の壁面についているガーゴイル(怪物の石像)も有名です。

(2)コンシェルジュリー

コンシェルジュリーはパリのセーヌ川の風景を彩る一際美しいゴシック様式の建物。これは元々中世の宮殿でした。現在パリに残るフランス王家初代の栄光を偲ばす貴重な建築物になっています。テンプル騎士団を弾圧した冷酷な国王フィリップ4世の宮殿として建てられましたが、14世紀後半より牢獄として使われるようになりました。後のフランス革命の際にはマリー・アントワネットを始めとして革命の敵とみなされた人々が収容され、「死の牢獄」と呼ばれるように。革命後の恐怖政治の間は、コンシェルジュリーから約2700人の囚人が護送馬車に乗せられてギロチンの断頭台(現コンコルド広場)へ連れて行かれました。元々コンシェルジュリーとはこの宮殿に設置された門衛室(コンシェルジュ)の意味でしたが、のちに建物全体をコンシェルジュリーと呼ぶようになりました。見どころはゴシック様式の衛兵の間(Salle des Gens d'Armes)。現存ずる中世の部屋では、ヨーロッパ一広いものです。またマリー・アントワネットが過ごした独房も再現されています。

(3)ドフィーヌ広場

ドフィーヌ広場はヴォージュ広場と同様にアンリ4世の時代に、皇太子(のちのルイ13世)の誕生を記念して1607年に建設されました。ドフィーヌ(Dauphine)とは、「王太子妃」の意味。ちょうど1年前にはポン・ヌフが完成し、その真ん中に位置するドフィーヌ広場は市民や金職人たちで大いに賑わったそうです。しかし現在、当時の商人たちのにぎわいを想像することは難しいです。観光客の絶えないノートル・ダム大聖堂の近くにあるとは思えないほど静まり返っています。また何か物語が始まる予感を感じさせるロマンチックな広場です。周りにはシテ島では珍しい民家が立ち並んでいます。これは19世紀後半のオスマン知事によるパリ大改造の手を逃れたためで、中世の風景をいくらか残しています。そして、この広場の形が400年前と変わっていないことはパリという街の素晴らしさの一つです。

(4)中世のシテ島へ

パリ屈指の観光地ノートル・ダム寺院のあるシテ島。その寺院のファサード左側部分に閑静なエリアがあります。ここはかつて大司教座(大聖堂参事会員)の領地だったところで、周囲から柵で囲まれた静かな地区でした。その領地の中にひっそりと佇んでいたシャントル通りは、中世パリの面影を残す数少ない通りです。オスマンのパリ改造の際に、かろうじて破壊を免れた貴重な場所。中世の時代、パリはこのような狭く細い路地が密集し、衛生状態はひどく悪かったそうです。この通りからノートル・ダムの尖塔を見ることができます(写真)。その眺めは、19世紀の版画家シャルル・メリヨン(1821-1868)が描いた腐食銅版画『シャントル通り』とまったく同じ風景。19世紀へタイムスリップできる数少ない場所の一つです。

(5)ポンヌフを眺める

シテ島はポンヌフを静かに眺めることができる絶好の場所でもあります。シテ島の河岸の一つであるケ・デ・ゾルフェーブル(Quai des Orfevres)からは美しいポンヌフの堂々とした姿を見ることができ、夜には欄干に灯された外灯によってその美しさはさらに高まります。この河岸は「銀細工商の河岸」という意味で、探偵映画の舞台としてよく使われているそうです。近くに裁判所があることも偶然ではないでしょう。

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