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パリ観光地:バスティーユ広場

バスティーユ広場
Place de la Bastille

フランス革命の発端となったバスティーユ牢獄があった広場   

バスティーユ広場

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パリ観光地:バスティーユ広場
バスティーユ広場

フランス革命の発端となったバスティーユ牢獄があった場所

今若者の間で人気のパリエリアといえばバスティーユ。パリ11区、12区、4区の境にあり、パリ中心部からは離れていますが、最新のカフェやバーが店を開き、今ではパリジャンに人気のナイトスポットになっています。その中心にあるのがバスティーユ広場。1792年にできた古い広場で、もともとはフランス革命の発端になったバスティーユ牢獄があった場所です。広場の名前もその牢獄に由来しています。1789年7月14日、当時の王政に不満をもっていた民衆がバスティーユ牢獄を襲撃し、革命が始まりました。その後王政は倒れ、フランス国王ルイ16世とマリー・アントワネットはコンコルド広場で処刑されます。当時の建築物がほとんど残されていないのが残念ですが、広場の名前として残されたことで1789年の出来事を思い浮かべるきっかけになっています。

「革命記念日」のきっかけになった
バスティーユ襲撃が行われたのは1789年7月14日。のちにこの日は「革命記念日」として、毎年フランスで祝われるようになりました。日本では「パリ祭」という名前で知られています。その前夜の7月13日にはバスティーユ広場で「前夜祭」も開かれています。

活気あふれるパリの流行エリア

現在バスティーユ広場の周りは車の行き交うロータリーになっています。広場の周辺にはメトロ1号線のバスティーユ駅やセーヌへと続くアルスナル港があります。また昔ながらの家具職人たちが住む下町フォブール・サン・タントワーヌにも近いこともあって気さくな雰囲気が漂い、気どらないパリの姿を見ることができます。中央には黄金に輝く自由の天使の像が乗った革命記念柱が建っています。これは1830年の7月革命の犠牲者を追悼して1833年に作られたものです。

七月革命
1830年7月にフランスで起きた市民革命。ナポレオン失脚後、ブルボン朝が復活していましたが、この革命により王朝は再び打倒され、市民推薦のルイ・フィリップが王位に就きました。しかし「ブルジョワの王」と呼ばれたルイ・フィリップの政権も労働者の間では不満が多く、2年後の1832年には王権打倒を目指した6月暴動が起きています。ちなみにこの暴動はヴィクトル・ユーゴーの小説『レ・ミゼラブル』のクライマックスとして描かれています。

最近ではバスティーユ広場周辺が「パリ流行のエリア」として変わりつつあります。多くの新しいカフェやバーがオープンし、地元アーティストたちが集まる場所になっています。また芸術の発信地としても知られ、ガラス張りのモダンな外観が目を引く新オペラ座(オペラ・バスティーユ)では現代バレエなどが上演されています。忌まわしい牢獄のあった場所に新しい芸術のためのオペラ座ができるとは、当時誰も想像していなかったでしょう。

バスティーユ広場から運河クルーズが楽しめる
バスティーユ広場のすぐ南にあるアルスナル港はもともとバスティーユ牢獄のお堀があった場所。現在はセーヌとサンマルタン運河をつなぐ港になっていて、多くの個人ボートが停泊しています。この港からサンマルタン運河クルーズの出発地。時間に余裕のある方は、ぜひゆったりとした下町の運河巡りを楽しんでみてください。

バスティーユ広場の歴史(1):牢獄の始まり

広場の名前の由来となったバスティーユ牢獄とはどんなものだったのでしょうか。もともとバスティーユ牢獄はパリ東部を守るために1370年に作られた要塞でした。バスティーユ(Bastille)とは元々「砦」を意味する普通名詞。要塞の近くには王の居住地の一つであるサン・ポールの館がありました(現存せず)。つまり当時のフランス国王シャルル5世の緊急避難場所としての役目もありました。要塞の壁は幅3メートルもある頑丈なもので、城壁には8つの櫓が建てられ、周囲を幅25メートルものお濠で囲まれていました(そのお濠の一部が現在のアルスナル運河です)。要塞の隣にはサン・タントワーヌ門があり、要塞の建造に伴って2つの塔で補強されました。

バスティーユ広場の歴史(2):牢獄に収監されていた著名人

17世紀に要塞としての役割を終えると、ルイ13世の宰相だったリシュリュー枢機卿はバスティーユ要塞を王の特命によって捕らえられた政治犯を収容する牢獄に変えました。これがバスティーユ牢獄の始まりです。要塞の近くにある下町サン・タントワーヌの人々の間では恐れられましたが、実際には囚人は少なく、フランス革命時にはわずか7名しかいなかったそうです。手形偽造者が4名、気の狂った男が1名、殺人容疑で服役中のソラージュ伯爵、ポンパドゥール夫人への陰謀のかどで逮捕されたジャン・アンリ・ド・ラチュド、ルイ15世を襲ったロベール・フランソワ・ダミアンの共犯者タヴェルニエでした。その少し前までは精神病院に移されたマルキ・ド・サドもいました。サド侯爵はこの牢獄の中で『ソドムの百二十日』を執筆しました。有名なバスティーユ襲撃は1789年7月14日に起こり、フランス革命の発端になったと言われています。7月16日にはバスティーユ要塞の取り壊しが決定し、解体された石材はコンコルド橋の建設に使われました。今では要塞の姿は何もなく、ただバスティーユの名がついた広場があるだけです。もし現在の広場にバスティーユがそのまま残っていたら、あまりに壮観な眺めだったに違いありません。

バスティーユ広場の歴史(3):鉄仮面の男の伝説

牢獄にまつわる伝説を一つご紹介します。破壊直前、牢獄にいた囚人はわずか7名でしたが、それ以前収監されていた囚人の中にいたのが鉄仮面の男。彼は1669年にルイ14世の大臣からピネローロ監獄の監獄長のもとに預けられ、監獄長自らが世話をしたといわれています。その後南仏沖のサン=マルグリット島の砦など様々な監獄で服役した後、1698年から1703年に亡くなるまでバスティーユ牢獄にいました。当時の証言によると、バスティーユ監獄で彼はとても丁重に扱われ、副監獄長に世話を受けていました。また実際には鉄仮面ではなく、黒いビロードの仮面を顔に覆っていたそうです。彼の正体は誰も知らず、一説によるとルイ14世の異母兄だとも言われています。彼は死後、パリ4区のサン・ポール・サン・ルイ教会にマルシオリの名前で埋葬されました。鉄仮面の男の逮捕状と彼が身に着けていた鉄仮面は、現在元兵器庫だったアルスナル図書館に所蔵されています。鉄仮面の男はその後、文学作品でも題材となり、映画にもなっています。

バスティーユ広場の歴史(4):かつて広場に巨大象が建っていた?

牢獄が破壊された後、この土地を活用したのがナポレオン。フランス革命後の記念碑(勝利のモニュメント)としてバスチーユ広場に青銅製の巨大な象の彫刻を建てようと計画しました。その後ナポレオンの指示により、原寸大の模型として石膏製の象が作られます。建築家アラヴォワーヌによる高さ24メートルの巨大な象はパリ市民の間で話題になりました。

しかし模型を元にした本体の建設工事はナポレオンがワーテルローの戦いに敗れた1815年に中止となります。そして象の模型だけがそのまま広場に取り残されました。ヴィクトル・ユゴーの小説『レ・ミゼラブル』では主人公の隠れ家として登場することによって永遠にパリジャンの記憶に留められることになりました。また象の足の一つには階段が設けられ、展望台に上ることができる設計だったそうです。1820年代の終わりにはバスティーユ広場近くの住人が、模型の中に住むネズミによる被害に苦しみ、象の撤去を要求する声が大きくなりました。それでも長い間象の模型は放置され続け、1846年にようやく撤去されることになりました。フランス人の「モノもちのよさ」が分かるエピソードです。今では象が建っていた円台のみが残り、七月革命で造られた記念柱を支えています。

バスティーユ牢獄の痕跡を求めて

かつてのバスティーユ要塞の名残はほとんどありませんが、注意深く歩いてみるとバスティーユ広場周辺にいくつか残っています。広場の西北、アンリ・キャトル大通り(boulevard Henri IV)とサン・タントワーヌ通り(rue de Saint-Antoine)の角にある地面を見ると、褐色の舗石が円を描いて埋まっています。これはバスティーユ要塞の輪郭を示すもの。バスティーユ広場広場3番地の建物の入り口の上には、バスティーユ要塞の全体図を描いたプレートが残っています。バスティーユ広場とセーヌ河をつなぐアルスナル運河は、かつてバスティーユ要塞を囲んでいたお濠の跡です。アンリ・キャトル大通り沿いにあるスクワール・アンリ・ガリ(Square Henri-Galli)という公園の中には、バスティーユ要塞の塔の土台が置かれています。またメトロ5番線バスティーユ駅のホームには要塞の土台の一部が展示されているので、駅を降りるついでに見ることができます。
パリ観光基本情報
バスティーユ広場 / Place de la Bastille
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オープン(完成):1792年
住所:
最寄メトロ:Bastille(バスティーユ)
エリア:バスティーユ
カテゴリ:パリの観光スポット
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バスティーユ広場へのアクセス(地図)
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