パリの人気エリア
パリの人気地区:サン・ジェルマン・デ・プレ

サン・ジェルマン・デ・プレ

出版社や伝統的カフェが集まるパリの知的中心地   
パリ人気エリア:サン・ジェルマン・デ・プレ教会(サン・ジェルマン・デ・プレ)
パリ人気エリア:レ・ドゥ・マゴ(サン・ジェルマン・デ・プレ)
パリ人気エリア:カフェ・ド・フロール(サン・ジェルマン・デ・プレ)
パリ人気エリア:サン・ジェルマン・デ・プレ
パリ人気エリア:ラ・ユンヌ(サン・ジェルマン・デ・プレ)
パリ人気エリア:ラ・ユンヌ(サン・ジェルマン・デ・プレ)
パリ人気エリア:オデオン通り(サン・ジェルマン・デ・プレ)
パリ人気エリア:オデオン座(サン・ジェルマン・デ・プレ)
パリ人気エリア:カフェ・ボナパルト(サン・ジェルマン・デ・プレ)
パリ人気エリア:カフェ・ボナパルト(サン・ジェルマン・デ・プレ)
パリ人気エリア:サン・ジェルマン大通り(サン・ジェルマン・デ・プレ)
パリ人気エリア:サルトルが住んでいたアパルトマン(サン・ジェルマン・デ・プレ)
パリ人気エリア:サン・ジェルマン大通り(サン・ジェルマン・デ・プレ)
パリ人気エリア:サン・ジェルマン大通り(サン・ジェルマン・デ・プレ)
パリ人気エリア:サン・ジェルマン大通り(サン・ジェルマン・デ・プレ)
パリ人気エリア:サン・ジェルマン・デ・プレ教会(サン・ジェルマン・デ・プレ)
パリ人気エリア:サン・ジェルマン・デ・プレ教会(サン・ジェルマン・デ・プレ)
パリ人気エリア:ブラッスリー・リップ(サン・ジェルマン・デ・プレ)
パリ人気エリア:ブラッスリー・リップ(サン・ジェルマン・デ・プレ)
パリ人気エリア:ブラッスリー・リップ(サン・ジェルマン・デ・プレ)
パリ人気エリア:ブラッスリー・リップ(サン・ジェルマン・デ・プレ)
パリ人気エリア:ブラッスリー・リップ(サン・ジェルマン・デ・プレ)
パリ人気エリア:レ・ドゥ・マゴ(サン・ジェルマン・デ・プレ)
パリ人気エリア:カフェ・ド・フロール(サン・ジェルマン・デ・プレ)
パリ人気エリア:ヘミングウェイが通っていたビストロ

サン・ジェルマン・デ・プレ

最終更新日:
パリ人気エリア:サン=ジェルマン大通りとブラッスリーリップ
夜のサン=ジェルマン大通りとブラッスリーリップ

上質さが漂うパリの知的中心地

サン・ジェルマン・デ・プレはパリ6区にあるエリアで、サン・ジェルマン大通りの南北に広がる一帯を指しています。パリ最古の教会サン・ジェルマン・デ・プレ教会を中心とした界隈で、老舗カフェやバー、ギャラリー、アンティークショップ、出版社、劇場、映画館が多いことで有名。訪問者を迎え入れるそれらの店が、このエリアを一種独特の文化の発信地にしています。

官庁街と学生街が隣り合う

活気がありながらもシックで洗練された雰囲気の佇まいは、本物の高級感が漂う場所としてパリでも指折りの人気観光地。西側には今は官庁街となっている昔の貴族たちが住んだ屋敷街があり、洗練された雰囲気が漂うのもその土地柄が影響しています。その一方で有名な美術学校であるエコール・デ・ボザールもこの近くにあり、画家を目指す画学生が通りを歩いている姿も見かけます。印象派として有名なクロード・モネやウジェーヌ・ドラクロワはこの美術学校の生徒でした。

サルトルの実存主義で一躍有名に

17世紀末から発展してきたこの一帯は1930年代から「パリの知的中心地」として知られるようになり、戦中・戦後には多くの作家や芸術家、歌手、政治家、観光客がサン=ジェルマン=デ=プレに集まりました。彼らはカフェで当時の流行だった「実存主義」について語り、穴倉のバーでは酒を楽しみジャズを聴きながらその瞬間の生を謳歌しました。哲学者ジャン=ポール・サルトルもその一人でした。当時の喧騒が去った今でも、サン=ジェルマン=デ=プレを歩けば作家や出版関係者、未来の芸術家に会えるかもしれません。最近ではファッション業界も進出し、多くの服飾や靴の高級ブティックが昔ながらの古書店と並んで美しいウィンドウを見せています。老舗のショコラティエや洗練された雑貨屋もあるのでパリのお土産選びにも最適です。知性と快楽が共存したサン=ジェルマン=デ=プレは、パリでも注目の観光エリアです。

20世紀パリを代表する場所の一つ
19世紀末から20世紀半ばにかけて、パリでは3つの場所が当時の芸術・文化をけん引しました。最初はベル・エポック時代のモンマルトル、次にエコール・ド・パリ時代のモンパルナス、そして実存主義時代のサン=ジェルマン=デ=プレです。これらのエリアは様々な理由から自然発生的にその時代の芸術家を引き付け、文化的エネルギーの発信源になったといえます。

最新モードと骨董品が並ぶ

サン=ジェルマン=デ=プレの魅力はモードとアンティークが隣り合っている風景にあるかもしれません。サンジェルマン大通りの南にある通りを歩けば最新モードを見ることができます。サン・ペール通りやグルネル通り、トゥルノン通りなどには注目のブティックが並んでいます。高級ブランドよりも掘り出し物を探したいなら、サンジェルマン大通りの北側の通りがおすすめ。国立美術学校に沿ったボナパルト通り、フランス学士院から南下するセーヌ通り、この2つの通りを結ぶジャコブ通りにはアンティークショップや古本屋、アートギャラリーが並んでいます。自分だけの素敵なお土産を探すのに最適なエリアです。市民の生活を見たいならビュシ通りへ。この通りの周辺は市場もあり庶民的な雰囲気を感じることができます。果物屋や八百屋、魚屋、惣菜屋などが並び、地元の買い物客が夕飯の材料を探して歩いています。

ソニア・リキエルの住んだ家
パリの有名ブランド「ソニア・リキエル」の創設者であるソニア・リキエルは、サン=ジェルマン=デ=プレのサン・ペール通り60番地(60 rue des Saints-Peres)に住んでいました。「ニットの女王」と呼ばれた彼女は1968年に最初のブティックをサン=ジェルマン=デ=プレに開店。70〜80年代パリのモードを牽引し、2016年に死去。2018年にはパリ6区にソニア・リキエル通りが生まれました。

パリ人気エリア:レ・ドゥ・マゴ(サン・ジェルマン・デ・プレ)
レ・ドゥ・マゴ

作家が集った3つのカフェ

サン=ジェルマン=デ=プレといえば、カフェを抜きに語ることはできません。サン=ジェルマン大通りにあるドゥ・マゴ(Les Deux Magots)とカフェ・ド・フロール(Cafe de Flore)、ブラスリー・リップ(Braserie Lipp)の3つのカフェは重要な役割を担いました。これらのカフェはサン=ジェルマン=デ=プレの中心的存在であり、サルトルなど戦後の作家・哲学者のたまり場でした。彼らは安ホテルに泊まりながらこれらのカフェで一日中議論し、この界隈を国際的に有名な「知の発信地」にしました。詩人のレオン=ポール・ファルグはこのサン・ジェルマン界隈について「この一帯はいまや国家機関ほどにも有名な3つのカフェのおかげで、生活し、呼吸をし、鼓動をし、眠りにつくといってもいいくらいだ」と言っています。実存主義を生み出した作家ジャン=ポール・サルトルとシモーヌ・ド・ボーヴォワールもそうした知識人の一組でした。コーヒー1杯の値段でいつまでもいられるカフェは、居場所の見つからない芸術家たちの避難所でもありました。サロンとも違った自由な魅力のあるそうしたカフェから、20世紀を代表する文学作品が生まれていったのです。 パリ人気エリア:サン・ジェルマン・デ・プレ教会(サン・ジェルマン・デ・プレ)
サン・ジェルマン・デ・プレ教会

サン=ジェルマン=デ=プレの歴史(6世紀):名前の由来となった大修道院が完成

サン=ジェルマン=デ=プレの起源は6世紀に遡ります。558年にサン=ジェルマン=デ=プレ教会の前身である大修道院と付属教会が完成すると、その周辺に小さな集落が作られていきました。この大修道院は当時のパリ司教だった聖ジェルマンとフランス国王によって造られました。かつて教会の建てられたこの地区は当時パリ郊外(パリ城壁の外側)の何もなかった野原だったので、パリ司教の名前と合わせて「野原の聖ジェルマン教会(サン=ジェルマン=デ=プレ)」と呼ばれるようになりました。それが教会の名前の由来で、この地区もその名で呼ばれるようになりました。

サン=ジェルマン=デ=プレの歴史(12世紀):集落ができあがる

12世紀までに集落は少しずつ拡大し、現在のパリ6区と7区にあたる地区を中心に形成されていきました。当時この地区を管轄していたのはサン・ピエール教会でした。この時代はカトリック教会の市民への影響が非常に強く、大修道院は巨大な権力を持っていました。12世紀当時、ここはまだ城壁の外にあるパリ郊外で、600人ほどの人が住んでいたようです。

サン=ジェルマン=デ=プレの歴史(17世紀〜19世紀):知識人たちの集まる活気ある地区に

17世紀になると、サン=ジェルマン=デ=プレには多くの知識階級が集まり、芸術と学問の中心地として賑わうようになりました。劇作家ジャン・バティスト・ラシーヌや貴族で文学者のフランソワ・ドゥ・ラ・ロシュフコーなどの多くの作家たちが住みました。劇作家モリエールの最初の作品が上演されたのもここで、パレ・ロワイヤルにあるコメディ・フランセーズ(フランスを代表する国立劇団)も最初はサン=ジェルマン=デ=プレにありました。パリ最古のカフェである「ル・プロコープ」やビュシ通りの「ランデル」には多くの政治家が集まり、後に彼らの議論は革命へと発展していきました。長い間この地区の中心だった大修道院は18世紀末のフランス革命の際に火薬の爆発によって破壊されました。革命後の19世紀になってもサン=ジェルマン=デ=プレは芸術の中心地として栄え、ドラクロアやマネなどの画家、バルザックやオスカー・ワイルドなどの作家が住んでいました。

サン=ジェルマン=デ=プレの歴史(1920年代〜1940年代):作家が集まるパリの知的中心地へ

芸術家を惹きつけるコミュニティの流れは20世紀初頭のモンマルトルの丘から始まりました。1910年代までモンパルナスが芸術家や作家のたまり場でした。1909年にピカソがモンマルトルのアトリエ「洗濯船」を出たあと、お金のない芸術家たちは集まる場所を失いました。その後モンパルナスは廃れ、芸術家や作家は丘の下の左岸モンパルナスのカフェに場所を移します。ピカソのアトリエ同様に、カフェは出入りが自由なため、次第に画家や作家たちが集まるようになり、1910年代はモンパルナスが芸術の中心地と言われました。しかしそのモンパルナスも次第に観光地化し、自由な論議の故のカフェでの乱闘事件などで騒がしくなります。1920年には多くのアメリカ人がこの地区の魅力に惹かれて滞在しました。アーネスト・ヘミングウェイやヘンリー・ミラーがその代表です。1929年の世界恐慌やナチス・ドイツによるパリ占領などの社会的な事件も、モンパルナスの芸術家コミュニティの解体に拍車をかけました。そのあとに作家たちが目をつけたのが、まだ村のような雰囲気の残っていたサン=ジェルマン=デ=プレでした。モンパルナスで作られた芸術家コミュニティは、世界恐慌やドイツのパリ占領を機に解体し、その後1930年代から40年代にかけてパリの芸術家や作家の拠点になっていきました。

ピカソのアトリエがあった
画家ピカソは1936年にセーヌ河に近いこの地区にアトリエを構え、翌年に『ゲルニカ』を描きました。静かな場所で芸術や文学に関する議論や執筆ができる場所として、当時のサン=ジェルマン=デ=プレはうってつけの場所でした。

その中にはジャン=ポール・サルトルとシモーヌ・ド・ボーヴォワールの哲学者夫妻、歌手のジュリエット・グレコ、映画監督のジャン=リュック・ゴダールとフランソワ・トリュフォーなどがいました。サン=ジェルマン=デ=プレを拠点に活動する作家たちの生活はパリの人々の関心を呼び、当時の新聞では彼らの生活がかなり誇張された表現で書かれるようになりました。

ご承知のように、サン=ジェルマン=デ=プレには、常にその言動が注目され、それゆえに読者に報告する義務があると称するジャーナリズムの好餌となる一群の人々が存在した。そのこと自体は別に驚くにあたらない。なぜなら、その人たちはオープンな生き方を選んだ人たちであり、自ら好んで世間に身を晒しているのだから。

ボリス・ヴィアン『サン=ジェルマン=デ=プレ入門』

サン=ジェルマン=デ=プレの歴史(第二次世界大戦後):ギャラリー街へ

第二次世界大戦後はパリの美術マーケットの需要が高まり、多くの前衛芸術のギャラリー(画廊)が集まりました。次第にサン・ジェルマン・デ・プレはパリの前衛芸術運動の中心地になっていきました。ポンピドゥーセンター設立後は多くのギャラリーがマレ地区に移動しましたが、今でもセーヌ通りを中心に多くのギャラリーがサン・ジェルマン・デ・プレに残っています。1999年にはアート・サンジェルマン・デ・プレ・アソシエーションという芸術協会が発足し、新進アーティストたちによる合同展が毎年開催されています。

現在のサン=ジェルマン=デ=プレ

かつてはパリの中心地だったサン=ジェルマン=デ=プレですが、パリ全体の流行の流れは現在ではマレ地区バスティーユ地区などのパリ東部へと移動しているようです。またサン=ジェルマン=デ=プレにあった素晴らしい書店ル・ディヴァンやアカデミーフランセーズ伝統の宝石店アルチュス・ベルトランなどの老舗もディオールやルイ・ヴィトンなどの高級ブティックによって移転や店舗分割を迫られ、徐々にファッショナブルで商業的なエリアへと変わりつつあります。それでもなお、サン・ジェルマン・デ・プレには多くの書店やギャラリーが残り、文化的なエリアとして今も人気の観光地です。 パリ人気エリア:カフェ・ド・フロール(サン・ジェルマン・デ・プレ)
カフェ・ド・フロール

サン=ジェルマン=デ=プレのカフェ紹介

カフェ・デ・ドゥ・マゴ

道一本を隔てて隣にあるレ・ドゥ・マゴ(Les Deux Magots)も多くの作家が集まった有名なカフェです。1885年創業の老舗カフェで、元々は絹織物のお店でした。そのお店にあった2つの中国人形(フランス語でDeux Magots ドゥ・マゴ)が店名の由来となっており、今もその人形はカフェのインテリアとしてお店の中で見ることができます。アンドレ・ブルトンやルイ・アラゴンなどのシュルレアリストや、ジェイムズ・ジョイス、ヘミングウェイ、カミュなどの作家、ヴェルレーヌやアルチュール・ランボーなどの詩人、ピカソなどの画家たちが常連でした。このカフェでも有名なお客だったのはやはりボーヴォワールとサルトルの2人で、1930年代に彼らはここを書斎として使っていました。いつも決まった席で執筆し、それはまさに第2の家でした。当時の若き作家たちは何者かになろうとして居場所を探し、これらのカフェにたどり着いたのです。レ・ドゥ・マゴがパリを占領していたドイツ軍兵士たちのお気に入りの場所になったとき、彼らは執筆場所を隣のカフェ・ド・フロールに変えました。当時のドゥ・マゴは文学者たちの語り場や政治的な集会の場として使われるようになり、文化の発信地として大きな役割を果たしました。

カフェ・ド・フロール

サン・ジェルマン大通りにあるカフェ・ド・フロール(Cafe de Flore)は1885年創業の老舗カフェ。1940年代から50年代にかけては、哲学者夫妻として知られるジャン=ポール・サルトルとシモーヌ・ド・ボーヴォワールやアルベール・カミュなどの作家たちが集まりました。サルトルはこのカフェで哲学書『存在と無』(L'etre et le neant)を書き、当時のパリに実存主義ブームを起こしました。フロールに通っていた作家サルトルとボーヴォワール夫妻は当時の様子をこう述べています。「わたしたちはカフェ・ド・フロールで同棲しているようなものだった」(サルトル)、「フロールには特有の風俗とイデオロギーがあった。毎日そこに集まる常連の小さな集団には、完全にボヘミヤンに属してもいなければ、まったくのブルジョワでもなかった。大部分の者は映画や演劇の世界に何らかの関係があり、不確実な収入と、やりくりと算段と、希望とで生きていた」(ボーヴォワール)。

カフェで生まれた文学賞
レ・ドゥ・マゴは1933年にドゥ・マゴ賞を設立し、無名作家たちを支援し続けています。カフェ・ド・フロールも1994年にフロール賞を設立し、毎年カフェで作品の選考をしています。他にカフェが支援する文学賞としては、パリ9区のブラッスリー・ウェプレールがラ・ポスト財団と共同で支援するウェプレール賞などがあります。カフェと作家の関係は今もパリで健在です。

パリ人気エリア:ブラッスリー・リップ(サン・ジェルマン・デ・プレ)
ブラッスリー・リップ

ブラッスリー・リップ

サンジェルマン・デ・プレの有名カフェはドゥ・マゴとフロールともう一つあります。ブラッスリー・リップはレオナール・リップによって1880年に創業された老舗のブラッスリー。パリ滞在中の作家ヘミングウェイが通った店として知られ、サン・ジェルマン・デ・プレ教会の向かいにあります。彼が晩年に書いたエッセイ『移動祝祭日』によれば、ヘミングウェイは原稿料が入るとすぐにこの店へ向かい、セルブラ・レムラード(ソーセージのマスタード添え)とポム・ア・リュイル(ジャガイモのオイル漬け)、そして生ビールを250cc頼んだそうです。彼はこのブラッスリーで『武器よさらば』(A Farewell to Arms)を書きました。昔ながらの服装のギャルソンが給仕をしてくれる、パリでも珍しい正統派のブラッスリー。ヘミングウェイのいた1920年代当時の雰囲気を味わえる貴重な空間でクラシックなフランス料理を堪能してみてはいかがでしょうか。
パリ人気エリア:カフェ・ボナパルト(サン・ジェルマン・デ・プレ)
カフェ・ボナパルト

カフェ・ボナパルト

サン・ジェルマン・デ・プレのカフェと言えば上記のカフェ・ド・フロールとレ・ドゥ・マゴですが、現在は観光地化も激しく、値段も驚くほど高かったりします。もう少しお手頃にカフェを楽しみたいという人にはカフェ・ボナパルトがおススメです。サン・ジェルマン大通りと交差するボナパルト通りにあり、サン・ジェルマン・デ・プレ教会の裏手にあるカフェ。実はこのカフェと同じアパルトマンにサルトルが住んでいました。住所はボナパルト通り42番地(42 rue Bonaparte)。当時、彼はここから歩いて1分のところにあるカフェ・ドゥ・マゴへ通っていました。何故同じアパルトマンにあるカフェ・ボナパルトに行かなかったのかは謎ですが、あまりに近すぎるというのも理由の一つかもしれません。また近くにはヘミングウェイがよく通っていたと言われる気さくなビストロ"Le Pre aux Clercs"があります。
パリ人気エリア:ラ・ユンヌ(サン・ジェルマン・デ・プレ)
ラ・ユンヌ

左岸の知識人エリアを代表する書店だったラ・ユンヌ

サン・ジェルマン・デ・プレ地区には多くの書店がありますが、その中でも代表的な知識人御用達の書店がラ・ユンヌ。ベルナール・ゲールブランによってラバイ通りに1944年にオープン、サルトルやボーヴォワールなどの知識人に愛されました。最初は書店でしたが、その後版画の出版元や画廊として人気となり、1991年以降は大手出版社フラマリオンの経営となりサン・ジェルマン・デ・プレ大通り沿いに移転しました。 レ・ドゥ・マゴとカフェ・ド・フロールの間という、パリ左岸の文学好きにはたまらない立地で、多くの作家や芸術家が通ったそうです。ユンヌとはフランス語で「船の物見台」の意味。船の舳先の形をした不思議な内装が魅力です(白を基調としたフランスの書店の美しさにはいつも驚かされます)。1階には文芸・哲学関連の書籍、2階はアート・建築関連の大型書籍が揃っています。夜中まで空いているので仕事帰りのパリジャンにも人気。 2012年には大手出版社ガリマール書店に売却されますが、賃料の高騰によって再びラバイ通りに移転。その後も経営は続きましたが、2015年6月に惜しまれつつ閉店しました。
パリ人気エリア:サン・ジェルマン大通り(サン・ジェルマン・デ・プレ)
サン・ジェルマン大通り

サン・ジェルマン・デ・プレで生まれたボードレール

サン・ジェルマン・デ・プレは作家が集まってきただけでなく、そこで生まれ少年時代を過ごした作家もいた場所です。『悪の華』で有名な詩人であり19世紀パリの有名な遊歩者でもあったシャルル・ボードレールはサン・ジェルマン大通り付近で生まれています。まだ村のような田舎の雰囲気が残っていた19世紀、彼はここで生まれて少年時代を過ごしました。1821年にボードレールが生まれた生家(13 rue Hautefeuille)は、今は残っていません。小さな塔のあったその家は、サン・ジェルマン大通りができたときに取り壊されてしまいました。アシェット書店がある住所が生家跡とされていますが、実際には大通りの真ん中辺りだと言われています。レストランや雑貨店が多く観光客で賑わうサン・タンドレ・デ・ザール通り(rue Saint-Andre des arts)22番地には、ボードレールが1827年に母と共に住んだ家がありました。幸福なこの時代のことを彼は後の回想記に書いています。またボードレールが華やかな青春時代の一時期(1843-1845)を過ごしたホテル・ピモダンはパリ4区のサン・ルイ島にあります(17 Quai d'Anjou 4e Paris)。

様々な楽しみ方ができるサン・ジェルマン・デ・プレ観光

サン・ジェルマン観光の魅力は知的・芸術的な部分だけではありません。もうひとつの魅力はあらゆる場所へ開かれているところ。教会や有名カフェのあるサン・ジェルマン大通りをセーヌ方面の北上すれば、小さなギャラリーや骨董店があり、ルーヴル美術館や芸術橋に近い。またサン・ジェルマン大通りを南に行くと、様々なブティックを楽しめますし、サン・シュルピス教会や自然豊かなリュクサンブール公園もあります。また大通りを東に行けばソルボンヌ大学のある学生街カルチェ・ラタン、西へ行けば貴族の私邸が残る高級住宅地フォブール・サン・ジェルマン。このようにサン・ジェルマン・デ・プレはあらゆる種類の観光地へ行ける観光の中心地でもあります。

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